「あ、保志ちゃん!」


練習室から出たところで、如何ともし難い奇妙なあだ名で呼ばれる。こんなむず痒い呼称を平気で叫ぶ人は彼以外いない。予想は付いているけれど、敢えてゆっくりと振り返る。案の定見えた若草色の跳ねた髪と、傍らに控える赤。思わず頬が強張ってしまったのは条件反射であるに違いない。


「火原先輩、と日野先輩まで…どうしましたか?」
「ちょっとね!保志ちゃんに用があるんだ。ね、日野ちゃん?」
「え、あ…はい!」


日野先輩はわたしと目が合うと、頬を赤らめ気まずそうに目を逸らす。さっきの梓馬とのことを誤解したままなのかもしれない。全くあの性悪は余計なことをしてくれる。ああやって戯れてばかりいるから、自分の本心にも気付かないのだろうに。


「日野先輩、さっきのは何でもないですから。わたしと梓馬って幼なじみなんです」
「えっ!そうなの…?」
「あれ?日野ちゃん、知らなかったの?普通科でもすっごく有名だって友達に聞いてたのに」
「あ、と…私、噂に疎くて」
「そうですか。とりあえずあれは、ただふざけてただけなので、気にしないでくださいね」
「う、うん!」


言外に他言したら許さない、と殺意を篭めたつもりだったけど、日野先輩は朗らかに笑っただけで、気付いてないみたいだった。鈍いなあ、この人。きっと騙されやすいタイプだ。また一つ、わたしとの差異を見つけた。わたしには梓馬仕込みの処世術があるし、余程の思い入れがないと他人なんて信用しない。そして、信用していないことを他人に悟らせたりもしない。無邪気も、無垢も、平気な顔で装うことが出来た。


「あ、それでね、保志ちゃん!保志ちゃんってピアノ専攻だったよね?誰か、日野ちゃんの伴奏引き受けてくれそうな人、知らない?」
「いきなりごめんね。だけど私知り合いにピアノ弾ける人なんていなくって…」


梁ちゃんは、と口から出そうになって慌てて止めた。梁ちゃんは隠しているのだろうし、きっと引き受けるはずもない。わたしは友達の顔を何人か思い浮かべてみるが、ただでさえ日野先輩は普通科のくせに、と音楽科に嫉まれているのだ。わたしの友達といっても例外ではない。わたしから頼めば何とかなるかもしれないけど、打ち解けるのは難しいし、気持ちが揃わなければ伴奏など不可能だ。わたしの紹介では日野先輩の助けにはならないだろう。


「ん、と…すみません。日野先輩の実力はこの間の正門での演奏で、みんな一応認めてはいるんですけど、音楽科を差し置いて、っていう気持ちの方が強くて…。わたしの紹介だと一年生になってしまうし、多分、噛み合わないと思います」
「…そうだよね。私、初心者だもんね…」


日野先輩の言葉が引っ掛かる。普通科であれだけの演奏をしておいて、初心者?だけどそんなわたしの疑問を遮るように、火原先輩が大声を出したので思案は中断されてしまった。彼のことだから、きっと他意はないのだろう。


「大丈夫だよ、日野ちゃん!ピアノ弾ける人はいっぱいいるだろうし!俺も一緒に探すからさ」
「火原先輩…、はい!ありがとうございます!」
「…お役に立てずにすみません」
「ううん、話聞いてくれてありがとう。保志さんも、伴奏、頑張ってね」
「……はい」
「じゃあ行こっか。ありがとね、保志ちゃん!」
「さようなら、先輩方」


にっこり笑って手を振り、背中が見えなくなった瞬間、急激な脱力感に襲われた。あれは、お節介な火原先輩だから、なのかな。もしかしたら、なんて泥沼な展開を思い浮かべる。その中に桂ちゃんが入っていないなら、わたしはどうだっていいのだけど。


「保志さん」


ちょうど彼のことを考えているときに聞こえてきた声だから、てっきり幻聴だと思って、一度目は流してしまった。近くの教室の掛け時計を覗けば、桂ちゃんと約束した時間が迫っている。この前の反省を活かし、何処かの練習室で落ち合うことは決めていたが、明確な場所はわからない。一つ一つ虱潰しに捜せばいいか、そう納得して楽譜を入れたレッスンバッグの持ち手をぎゅっと握り締める。桂ちゃんのためなら、どんな労力も苦ではなかった。


「保志、さん」
「ひゃ、?…桂ちゃん!」


あんまりびっくりして叫んだものだから、桂ちゃんは不愉快そうに表情を曇らせた。いたたまれなくて、わたしの肩に載った白魚の手に視線を集中させる。どう思ったのかは知らないけど、桂ちゃんはすぐに手を戻し、「練習、この部屋でいい」と先程までわたしが居た練習室に入って行った。慌ててわたしも後に続く。


「あの、…ごめんなさい、」
「…なにが?」
「時間、遅かったから、桂ちゃんから来てくれたんでしょう?わたしが行くべきなのに…」


わたしにしては珍しく積極的に謝った。すると桂ちゃんは睫毛をばさばさ上下させて、何も言わずにチェロの準備を始めた。わたしは途端に不安になる。怒らせた?面倒くさがられた?嫌われた?


「…桂ちゃ「演奏には、」


桂ちゃんはゆったりと椅子に座り、足の間にチェロを置く。透明な瞳が少しだけ温かくわたしを捉えた。


「素晴らしい演奏のためには、伴奏者と演奏者は、自然に呼吸を合わせて一心同体になることが必要不可欠だから。あなただけが僕に気を遣う必要はない、と思う。だから、」


詫びる必要も、どちらかに無理に合わせる必要もない。言葉を続けなかったからわたしの予想に過ぎないが、そう暗に意味したのだと思う。気付いたら、じわりと目頭が熱を帯びていた。桂ちゃんには見られないように拭い、わたしもピアノの前に腰掛ける。わたしだけじゃなかった。一緒に、素敵な演奏を創りあげたい、と思ってくれてた。今のわたしはそれが十分すぎるくらい幸せだった。

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