結局、梁ちゃんとの会話で込み上げたもやもやを消せるわけでもなく、わたしは練習室に篭ってひたすらピアノを弾いていた。こんなときは没頭できるマゼッパに限る。暫くすると、キイイ、嫌な呻き声を上げて、古ぼけたドアが開いた。今日はこの練習室はわたしの貸し切りだったはずなんだけど。絶えず動かしていた指を止め、入口の方を見遣ると、予想外な人物が予想外だと言いたげな憮然とした表情で立っていた。互いに視線は合わせるが、どちらも動こうとしない。このままだと沈黙が延々と続きそうだったので、わたしが口火を切る。


「月森先輩、ここはわたしが借し切ってるんですが」
「…ああ。そうか、すまない」


歯切れの悪い返事に、何か文句があるんだろうなと悟る。そのまま口に出さないのは、彼の思慮深さではあるけれど、鬱憤を溜めさせるのも忍びない。何を言われたって、わたしは必要以上に事を荒立てたり、陰口を言うような人間とは断じて違う。コンクール前の精神というものは小さな波で崩れてしまいやすい。仕方がない、ここは受け入れてしまおう。


「…言いたいことあるなら、はっきりおっしゃって下さって構いませんよ」
「何を…」
「わたしの言動に至らないところがあったなら、謝ります」
「…そうやって、貸し切りだなんだと親の権力を振りかざすから反感を買うんだ。君も音楽家の端くれなら、自らの実力に相応した待遇を受けるべきだと思うが」


つまり月森先輩は一年の分際で練習室を私物化するな、と忠告しているらしい。わたしの親はどちらも世界的権威のある音楽家なだけあって、学校側の贔屓にも似た扱いは目に余るものがある。貸し切りだって、わたしでなければ許可は下りなかっただろう。同じような境遇の月森先輩は、親の七光を嫌い、決してそのおこぼれに与ろうとしない。だからこそ、易々と特別扱いに甘えるわたしが不快、なんだと思う。彼の自他に対する厳格さは周知の事実であるので、今更それを咎めるつもりはない。明らかに正しいのは先輩だし。


「わたしは、自身の向上のために使えるものは何でも利用する、が信条ですから。他人にどう言われようと関係ありません」
「…君とは理解り合えそうにないな。失礼する」


そもそも理解し合う気すらないくせに、と些かの不満を覚えたが、わたしもそれには激しく同意だったので、ぺこりと頭を下げるだけに止めた。月森先輩が出て行って数秒後、よくわからない靄のかかった声がわたしの中で響く。(日野先輩だったら、どうしただろうか)きっとあの人当たりの良い先輩なら、謝罪を述べて場所を譲るなり、忠告を聞き入れて反省するなりしただろう。わたしとあの人の違い。わたしはあの人にはなれない。だから、桂ちゃんは―…


「見てくれない、のかな」


だからといって、わたしは変わりたくはない。日野先輩を模倣して見てくれたところで、それはわたしではないのだから。わたしという存在を受容してもらわなければ、意味はないのだ。余計な雑念で、気分は重く、心なしか頭も痛くなってきた。深呼吸を二、三度して、椅子に腰掛け直し、頭の中の楽譜をめくる。何も考えたくないときはピアノに打ち込むに限るのが一番だ。必死に指を動かしている間は、全てを忘れられるから。脳内に広がったイメージのまま、彼の人を自分に重ねるように鍵盤を叩いた。

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