「ごめんなさい。わたし、桂ちゃんにしか興味ないんです」


深々とわざとらしく頭を下げれば、眼前の先輩らしき男性はみるみるうちに顔を怒りで赤く染める。きっと断られるなんて予想していなかったんだろう。顔の造りは悪くないし、呼び出すときの態度からいっても、自分に自信を持っているに違いない。こういうタイプは粘着質で面倒くさいということは、過去の経験から把握済み。こっそり内心で溜息を吐けば、先輩はわなわな震える唇を開いて、わたしの肩を強く掴んだ。それもかなり強い力だ。


「よく聞こえなかったから、もう一回言ってくれる?」
「何度でも言ってあげます。わたしは桂ちゃん以外要らないので、あなたと付き合うことは天地がひっくり返っても有り得ません」
「…っざけんな…!」


名前も知らない先輩の瞳に火花がちらつく。あ、やばいかも。いつものことながら、つい口が過ぎてしまう我が身を後悔した。先程までは恋する乙女のように縮こまってわたしの返事を待っていたのに、今や親の敵でも見るかのような目でわたしを睨みつけている。腕っ節で敵うはずもない。逃げようにも肩に置かれた手を振りほどくだけの力はない。何よりも、この先輩が無躾に掴む肩から伸びるわたしの手は、ピアノを弾くためのピアニストの手だ。万が一手に何かあったらどうしよう、という防衛本能だけがわたしをせき立てていた。逃げろ、逃げろ!だから、…無理なんだってば。


「おっと、そこまで」


突然第三者の声が介入してきた。弾かれたように頭を上げれば、陽光を反射して深緑に輝く短髪が目に入る。わたしは普通科の制服を纏った、がっちりした体躯まで視線を滑らした後、安堵の深い息を吐いた。


「悪いな。こいつこんな大人しい顔して、とんだじゃじゃ馬なんだよ。誤解も解けたことだし、お互い水に流そうぜ」
「む…梁ちゃん…」


なんだその言い草は、と文句付けたい気持ちも山々だったが、梁ちゃんの横目が黙ってろと語ったので口を噤んだ。幸いにも先輩は梁ちゃんの知り合いだったらしく、言葉巧みに上手く丸め込んでいく。スポーツ馬鹿だと思っていたが中々どうして口も達者なようだ。その無愛想ささえなければ、女子からの評判も上がるだろうに。


「わーったよ、土浦。見た目で決めた俺も悪かった。ここでのことは全部忘れてくれよ!」
「おーまたな」


わたしが下世話なことを考えているうちに話はついたらしく、先輩は随分勝手な言葉を残して去って行く。それだとわたしの中身が破滅的に悪いみたいじゃない。不満の意を篭めて梁ちゃんをちらと睨んでも、大袈裟に肩を竦めただけだった。


「何言ったの?」
「別に。ただありのままを教えてやっただけだ」
「変なこと言ってたら殴る。それが桂ちゃんの耳に入ったら、ただじゃおかないからね」
「へーへー。大体お前がもうちょっと下手に出るとか謙虚な行動に出ない考えなしなのが悪いんだろうが。俺は助けてやった恩人だっつの。礼の一つぐらい言え」
「ありがとうございまーす」
「棒読みで言われても嬉しくも何ともないな」
「あ、そう?」


わたしがすっとぼけて首を傾けると、梁ちゃんはくしゃりと顔を崩して笑う。梁ちゃんは大型犬みたいな人だ。それもドーベルマンみたいな強いやつ。わたしのピンチに颯爽と現れて、助けてくれる姿はまるで中世の騎士そのものだった。一つ年上の梁ちゃんとこんな風に仲良しな理由は、小さい頃から続く長年の付き合いだから、の一言に尽きる。今は止めてしまったけれど、梁ちゃんは昔は少年ピアニストとして名を馳せていた。同じようにピアノに夢中だったわたしは必然的に梁ちゃんと出会い、わたしみたいな奔放な人間の世話を焼かずにはいられない彼の母性のおかげで、仲良くなれたのだった。


「次はとにかく平謝りしとけよ。余計なことは言うな。あと人気のない場所は危ないから付いて行くんじゃない。避けられなかったら誰かに頼んで俺を呼べ」
「はいはい。梁ちゃんったら禁止ばっかでお父さんみたーい」
「はいは一回だ!あとお前みたいな世話かかる娘は要らない」
「はーい!……わたしだってこんな頑固親父願い下げだもん」


ぼそりと漏らした本音が聞こえたのか、梁ちゃんは再びわたしをぎろりと目線で窘めたが、構ってられなかった。梁ちゃんが小脇に抱える数枚の楽譜が、わたしの視界の端に入って来たから。


「梁ちゃん、ピアノ弾くの?」
「…は?あ、ああ、これか?これは俺のじゃなくて日野のだ。あいつ教室に忘れてったらしくて」


日野、梁ちゃんの口から紡がれるその名前に、言いようのない嫉妬を覚える。ふうん、渇いた笑顔しか浮かべられないのも許してほしい。梁ちゃんの後ろ姿を見送りながら、妙な胸騒ぎがしていた。桂ちゃんは変わった。梓馬も気にしてる。そうやってゆっくりと、わたしの世界を侵略していくのね。

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