好き、と伝えたのは七十二回目。愛してる、はちょうどその半分。なのにわたしの恋心は一向に伝わる気配を見せない。


「桂ちゃん、好き」
「…あ、どうも」
「…そうじゃないでしょ。返事はどうなの?」
「返事も何も…僕には、そういう感情がわからないから」
「どうして?好きか、嫌いか、だけよ。簡単でしょう?」
「名前を付けられるほどの感情をあなたに持っていない、そう言えばいい?」
「…今は、それでいいよ」


ほうら、わかってない。七十三回目の失敗に、溜息が漏れた。嫌いだと言われたのなら、尻尾巻いて逃げ出す準備は出来ている。幸いにもわたしにはピアノという支えがあるし、彼がいなくてもその実さしたる変化がないのが事実だ。だけど、今はそれが逆に辛い。わたしはこの人の特別になりたいのだ。チェロ以外の何に対しても執着を持たない彼にもしも必要とされたら、それはどんなにか幸せなんだろう。どうかその美しい蒼氷の瞳に、わたしを映してほしい。


「早く練習しよう」
「あ、うん…ごめんなさい」


彼の責めるような口調に急かされて、わたしは椅子に座り直して鍵盤に指を乗せる。伴奏は元々クラスメイトの男子がする予定だったのを、食券で買収して無理に代わってもらった。桂ちゃんは気付いてるかもしれないけど、何も言わない。どうでもいいんだろう。自分が気持ち良く弾ける伴奏ならば、誰であっても変わらないと思ってるみたいだ。だからわたしが足を引っ張るわけにはいかない。まあ、足手まといになるつもりもないけど。コンクールで何度も優勝した経験は決してまぐれではない。目と目で合図して開始しようとしたら、桂ちゃんはこちらを見ていなかった。彼の目線の先には壁しかない。不審に思っていると、微かだけどもヴァイオリンの音色が耳に入って来た。感情を上手く乗せられていない割に、技術だけはしっかりした、どこか素人じみた印象的な音。これは―…


「先輩の音だ…」


桂ちゃんがぽつりと呟く、その何気ない呼称にも愛しさが含まれてるような気がしてならない。あの人、日野先輩の音につられて小さく肩を揺らす桂ちゃんが、嫌で堪らなかった。いつか火原先輩と正門前で弾いていたガヴォット。あ、一小節飛ばした。半音ズレた。高音掠れてる。ミスなんて幾らでも見つかるのに、桂ちゃんは子守歌でも聴いてるかのように安らかな表情で瞼を下ろした。こうなった桂ちゃんは梃子でも動かない。わたしはわざとらしく溜息を吐いて、椅子から立ち上がった。桂ちゃんはこちらを見ない。



華やかなるものがテーマの第一セレクションに桂ちゃんが選曲したのはサパテアード。サラサーテがヴァイオリンのために作ったこの曲を敢えてチェロで弾こうと思った理由も、わたしは何一つ知らされていない。当たり前か、ただの伴奏者だから。桂ちゃんはあの人の音を随分と気に入っている。彼が自ら積極的に他人の演奏に耳を傾けるなんてこと今までなかった。同じクラスで、これまでにも何度も演奏したわたしの音だって耳に留めてくれなかったのに。


「桂ちゃん、練習しないの」


先程とは立場がまるで逆。わたしは早く演奏したい。わたしと桂ちゃんの音で、あの忌ま忌ましい音色を掻き消してしまいたいのだ。どうして完全防音の練習室に行かなかったんだろう。音楽室を選んだ数時間前の自分を後悔した。


「…桂、ちゃん」


ポーン、気まぐれに下ろした人差し指がレの音を鳴らす。桂ちゃんは一瞬眉を寄せただけで、わたしの音を聴こうとはしなかった。

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