「随分大胆になったものだな、椿」


芯から震えるような、圧倒的な存在感。柔和に笑んでいるものの、言葉の端々からは怒気が滲み出ている。


「旦那様、どうして、?」


瞳孔が大きく見開かれ、信じられないと驚愕の色を浮かべた鈴が途切れ途切れに尋ねると、男は不機嫌そうに眉を顰めた。


「どうして?それは私の台詞だ。休みだとは言ったが屋敷から出てよいとは一言も言っていない。よもや菫様まで唆すとは信じがたい所業だな」


高圧的に次から次へと苦言を提する男に文句の一つも言ってやりたくて、つかみ掛かろうと踏み出した足は鈴に止められる。邪魔をするなと睨みつけると、彼女の顔が視界に飛び込んできた。そこにあったのは一切の感情も希望もなくした虚無。


「…申し訳、ございません」


深々と下げられる頭に揃えて俺も下げる。今の俺が恐れているのは男なのか鈴なのかそれすらも曖昧だった。


「それが諸悪の根源か?」


男が俺に害虫を見るような蔑んだ視線を向ける。菫さんの言葉の通り、俺のことなど認める気もさらさらないようだ。口を利くものかと黙って俯いていると、男はそれをどうとったのか今度は鈴を捉えた。


「お前は今は謹むべきときだとわからないのか?今回は不問に付してやるからすぐに帰るぞ、椿」


学園長に一礼し、重心が安定していない鈴の腕を掴む。鈴は何も言わない。本当にもう帰っちまうのか。まだ海も見ていないのに、ここで休日が終わってしまう。無駄だと知りつつも、足はひとりでに外へ向かい、口は勝手に動き出した。


「…鈴っ!」


声の限りを張り上げると、弾かれたように鈴の背中が振り返る。今にも涙を落としそうに顔を歪めたかと思うと、膝をついて地面に頭を臥せた。


「何の真似だ。立ちなさい」


突然の行動にやはり驚いた様子の男が鈴を見下ろす。


「お願いします、旦那様。分不相応な願いだとは承知しております。ですが、どうか、どうか今日一日はお見逃しください…!」


何度も何度も地に頭を打ち付け、必死に許しを乞う。頬を自らの涙で濡らし、高価な着物が汚れるのも厭わずに。その姿は憐れを誘うようだったが、彼女の真剣な眼差しがそうはさせなかった。引きずり込まれそうな大きな黒目に男が映った。暫く鈴を呆けて眺めていた男が、何も言わずに踵を返し、門の方角に向かい歩み始める。ちょうど吹いた風に流されてしまったが、「明朝には帰れ」と確かに言ったように聞こえた。鈴はさっきからの体勢のまま深々と礼をする。頬を伝った雫が地面に黒い染みを作った。先生たちも互いに顔を見合わせ、胸を撫で下ろしている。しかし俺だけは、自分の胸に去来した事実にただただ打ち拉がれていた。俺と彼女に残された時間はあと僅か。

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