「わたしね、今日、海に帰るの」

静かな笑顔でそう言った鈴に、俺は咄嗟に返せる言葉を持ち合わせてはいなかった。しかし彼女の言わんとしていることは辛うじて理解できる。そのことに思い到った瞬間、俺は情けなくも「…なん、で」と焦ったような返事しか出来なかった。足先だけ海に浸していた鈴が名残惜しそうに砂浜へ上がってくる。俺は彼女を導き近場の濡れていない砂の上に座った。鈴は横に体を向け直す。大分暗くなったために月の光が俺達を照らし、彼女の白い肢体が浮き上がって見える。幻想的な輝きの中で、彼女は困ったように笑い、ゆっくり口を開いた。


「さっきの話の続き、ね。わたし、もうきりちゃんに会えなくなるの」
「はぁ?…なんでだよ」
「それが、旦那様が本当のことを知らせた理由。わたしが売られた金額の何十倍ものお金を出してわたしを買ってくれる人がいるんだって。旦那様が旅行から帰ってきたら、その人に商品として引き渡される予定だったの」


開いた口が塞がらないとはまさにこういうことだ。噛み締めるように躊躇いつつ鈴が話す内容は俺が生きてきた現実などとは掛け離れていて。


「そしたら、わたしはその人に囚われてしまう。死ぬまで外に出れないで、その人の悦楽のために生きるなきゃいけない。わたし、そんなのいやなの」


黒目がちの眼が俺を覗き込む。相変わらず、綺麗な瞳だと思った。


「大好きな人に会わずに生きるなんて、生と呼べないでしょ?」


それはつまりそういうことか。自惚れじゃないんだよな。俺の気持ちなんて考える前に決まっているのだけど。泣きそうな鈴をほって置けなくて伸ばした手はいつかと同じく拒絶された。


「鈴…?」
「だめ」
「っ…なんでだよ…」


俺まで視界が潤んできた。鈴は目を伏せて不意に立ち上がる。


「わたしだって、きりちゃんに触れてみたいよ。きっとあったかいんだろう、って想像してみる。だけど、わたし、きりちゃんを穢す自分を赦せない。きりちゃんがいいって言ったとしても、絶対にだめ」


鈴の目はもう俺を見ていなかった。ただひたすらに未来を見つめている。そんな気がした。


「ねえ、きりちゃん。わたしたち今回はちょっとすれ違っちゃったけど、きっと、来世では一緒になれる。だから、…お願い」


きりちゃんの手で殺して。鈴はとびきりの微笑を浮かべた。そんなことできるはずがない。勢いよく首を振ると、鈴はでも…と続ける。


「…学園長が言ってた。きりちゃんたちはいつかは任務に従い、時には人を殺めることも厭わない冷徹な忍になるって。わたし、きりちゃんの初めてになりたい。そして人を殺す度にわたしのことを思い出してほしい。それが、わたしの唯一のお願いなの」


全く、俺もとんだ女に惚れたものだ。彼女の気持ちは決まっている。俺が泣こうが喚こうが彼女はここで生を終えるのだろう。ならば、彼女の我儘を聞くのが男の甲斐性というやつだ。菫さんはこうなることをわかっていたのだろうか。


「…本当に、いいのか?」
「…うん」


俺の覚悟に鈴は本当に優しい表情を表す。暫く見れなくなるのは残念でならないが、来世で会えるのなら我慢しよう。懐から出した縄を彼女の細く白い首に回す。鈴は頬を伝う涙にも構わず、


「あ、もう一つお願いがあるの」


と笑んだ。返事は返さない、いや返せない。何か言おうとしても嗚咽に邪魔されて声にならなかった。


「幸せに、なってね。…だいすき、きりちゃん」


彼女が苦しまないように一気に縄を締めた。鈴が俺の名前を呼ぶいつもの甘えた声だけが何度も頭で繰り返される。幸せになんて、お前がいないのに叶うわけないだろう。ついぞ触れることが出来なかった鈴の躯を引き寄せ抱きしめる。少し冷たくなり始めたそれは、想像よりもずっと華奢で軽い。白い顔は眠っているだけじゃないかと疑うくらい美しく、幸せそうに微笑んでいた。もっとたくさんおばちゃんの料理を食べさせてやりたかった。授業を受けさせてやりたかった。笑わせてやりたかった。名前を呼びたかった。幸せに、してやりたかった。


「っ…鈴、!…鈴!鈴っ…!」


体の水分を全て出し尽くして彼女の名前を泣き叫ぶ。こんな終わりが欲しかったんじゃない。

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