「に、新妻さん…」
「ふぁひ」
「さっ、さっきのあれなんだけどね、あの、あれって…やっぱいい!何も言わないで!」
「ひゃふぇへひゃひへふ…」
「あ、歯磨きしてるんだっけ…」


しゃこしゃこ動かしていた手を休め、ふと気付く。新妻さんは白眼がちの目をぐるんと回して、わたしを不思議そうに見遣った。彼の小さな口の端からミントの香りがする液体が零れそうになったので、慌てて洗面台の上に移動させる。ついでに蛇口を捻って、つい先程役目を終えた歯ブラシを洗いにかかった。コップに水を貯めて、新妻さんに嗽を促すと、彼はこくんと頷き、盛大な音を立てて嗽を行う。何て言うか、同い年のはずなのに大きな子供の世話をしているみたい。事実、健康的な十六歳の男の子は歯磨きを他人に任せたりしないだろう。


「なんか教育テレビのお姉さんになった気分…」
「パジャマでオジャマです?」
「普通に歯磨き上手かな、でいいでしょ。新妻さんってまさか一人で歯磨き出来ないの?」
「むぅ…馬鹿にしないでください。歯磨きなら出来ます」


じゃあ何なら出来ないんだ、と疑問に思ったけれど、他人の詮索は控えるべきかと思ってやめた。彼にそんな複雑な事情があるようにも見えないけど、これが全て演技だったとしたら余計な干渉は褒められたものではない。先程の質問に加えて、更に新妻さんの言動に振り回されている自分が何となく悔しかった。


「じゃあ…何で歯を磨いてくださいて、なんて言ったの?」
「こないだテレビでやってて何だか羨ましかったです!」


彼は最近上京したばかりだというし、純粋に母親が恋しくなったのかもしれない。だからといって同い年の女子に歯磨きをさせる神経は全く理解できやしないけれど。本当にわたしの理解の範疇を超えている人だと思う。


「それはお母さんと子供でしょ?わたしたち同い年なんだけど」
「はい!でも老若男女関わらず、愛を確かめ合う行為って同じだと思います。お母さんがそれで子供に慈しみを教えるなら、僕も春日居さんから学びたいです」
「ごめん…よくわかんない。わたしに母性なんてないよ」
「いーえ、あるです!」
「ないよ。何を根拠にそんなこと言うの」
「僕の勘です」
「それは根拠って言わないっつうの…恋愛感情もわかんないのにその先の母性がわかるはずない」


いつも編集部から指摘され続けてきたこと。もっと恋の要素を加えて、恋する主人公の心理描写を丁寧に、片想いの揺れ動く心を描いて、いつもわたしに欠けているのは恋愛の二文字だった。わたしは恋をしたことがない。だから恋をするとどんなに胸が苦しいのか想像もつかないし、愛のために命を懸けるなんて馬鹿だとしか思えなかった。少女漫画には少なからず恋愛要素が必要不可欠だ。ファーストキスに憧れる幼い女の子から過激な性表現に興味を持っちゃうお年頃の少女まで、女の子は誰しも恋愛話を求めている。それが欠けた少女漫画が成立するはずもない。もちろん友情など他のテーマが描かれることもあるけれど、余程の名作家でなければ人気を得ることは難しい。だからわたしのネームは没にされ続けているわけだけど。


「僕が教えてあげましょうか」
「へ、」
「恋愛感情、です」
「新妻さんにわかるとは意外だったな」
「はい、実は僕も知りません。だけど、春日居さんとなら、わかるような気がします」
「それはなんで?」
「僕の勘です!」


胸を張ってそう宣言する新妻さんに、わたしは微笑ましさと苦々しさがない交ぜになった気持ちを静かに味わっていた。


歯を磨いてあげる



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -