※「ふくらみかけた愛」とリンクしてるような


アヤベは最近一緒に住むようになった男の子だ。同棲、と言えば聞こえがいいかもしれないが、あたしたちの場合はお互いの領分を保ちつつ、ただ同じ部屋に住んでいるだけだった。あたしはアヤベのことを何も知らない。苗字なのか名前なのか本名なのかも分からないアヤベという呼称と、あたしより年下であること。それだけ。


「おねーさん」


アヤベはあたしをおねーさん、と呼ぶ。今もせっかくお人形みたいに綺麗なお顔をしてるのに、眠そうな半眼を崩すことなく間延びした声であたしの気を引いた。さっき言ったようにお互いのライフスタイルに干渉することなく生活しているので、アヤベは遅い晩御飯のインスタントラーメンにお湯を注いだところ、あたしは風呂上がりのパックを剥がした直後だった。


「なぁに?」
「マシュマロココアが飲みたいです」
「えー…またなの?昨日も飲んだし止めときなさい」
「僕は飲みたいです」


アヤベは言い出したら聞かない。この押し問答もどうせあたしが折れることになると見えているので、あたしは冷蔵庫から牛乳パックを取り出してミルクパンに注いだ。ついでだから二人分にしよう。たぷたぷ揺れる真っ白な表面はキッチンの蛍光灯の光を受けてきらきら光った。


「毎日毎日マシュマロココアばっか飲んでて飽きないの?」
「おねーさんの作るのはとっても美味しいので」
「はいはいありがとー」


にこりともしないアヤベに褒められたところで、素直に受け取れるはずがあるまい。彼が正直というかストレートなのは二ヶ月も共にすれば嫌という程わかっていたので、決してお世辞などではないだろうけど。あたし個人を褒められることなんて滅多にない現在では、そんな小さいことでも嬉しく感じる。手持ち無沙汰になった自分を隠すように、沸々あったまってきた牛乳をぐるぐる掻き混ぜた。


「おねーさん」
「んー?まだ何かあるの」
「僕って美大生なんです」
「へ、え…初耳ね」


心臓が不自然に跳ねた。心の奥底に隠していた情熱の上っ面を、無遠慮に撫でられたような不快感が爪先を擽る。だめ、触れないで。あたしはもう忘れたのよ。


「おねーさんも、でしたよね」
「………!」


あたしの一番綺麗で一番醜い部分を言い当てられてしまった。平静を装おうと飲み込んだ唾はごくりと動揺を明らかにするだけに終わる。アヤベの透明な瞳が今だけは憎らしかった。染まってしまえばいいのに。あたしみたいに才能に見切りをつけて現実に迎合して社会の歯車になってそんな自分に絶望して嫌になってしまえ。牛乳はぶくぶく音を奏で続ける。


「何で、わかったの」
「芸術家の勘ってやつです」
「ふふ、なにそれ」
「嘘です。たまには同居人らしく掃除でもしようかと雑巾を探してたときに見ちゃったんです」


アヤベはそう言って、普段は開きもしないようなキッチンの床下収納がある辺りに視線を落とす。そう言えばそうだった。何の賞も取れない駄目な自分に嫌気がさして、一切の作品も夢も廃棄しようとしたときにも、あたしは処分することが出来ずにそこに仕舞ったんだ。実に成らずとも、自分の感情を詰めるだけ詰め込んだそれらはどれもあたしの大切な一部で。燃やすにしても捨てるにしても、過去の自分を否定することに繋がると思ったのだ。あたしは、絵を続けられずに自分から逃げ出した弱いあたしも、それなりに大切だった。愚かなほどに。


「現役美大生の目から見たら、子供の落描きみたいなレベルだったでしょ?」
「そんなことないです」
「気を遣わなくてもいいよ」
「いいえ、…おねーさんの絵は僕の大切な人の絵に似てます」


初めて、アヤベの顔が和らぐのを見た気がする。人間らしさの欠片もないと常々思っていただけに、驚きを隠せなくて口を閉じるのを忘れていたら、「そんなとこもそっくりです」と微笑まれた。


「基本に忠実で、あったかくて、ひたすらに絵を描くことを愛している人の絵です」


アヤベは遠い何処かに想いを馳せるように、目を閉じてしみじみ呟く。その人は、多分女の子なんだろうけれど、このアヤベにここまで想われているなんて羨ましいとふと思った。別にアヤベが好きだとかそんな下世話な話にするつもりはまるでない。ただ、この年下の男の子が、彼に愛される女の子が、自分とは別次元に存在するかのように美しく感じられて、少し寂しかったのだ。あたしはもう、彼らのようには生きれない。温まりすぎた牛乳は鍋の縁から溢れ出す。まるで、あたしの心みたいに。


「おねーさん」


アヤベがそっと、その繊細な指でぽちりとコンロの火を止めた。零れた牛乳は白い跡をうっすら残して蒸発してゆく。その中に、あたしはいない。


「アヤベ、」
「はい」
「いつまで一緒にいてくれる?」
「…桜の花が咲く頃までは」
「…どうして?」
「彼女が僕を追ってくれます」
「そっか、そうよね」


あたしはアヤベに何を求めていたのだろう。自分に問い掛けたところでその答えは返ってこない。寂しかったのかもしれない。辛かったのかもしれない。ただ一つ言えるのは、あたしはアヤベに救われた。


「アヤベ。あたしね、松原笑っていうのよ。興味ないだろうとは思うけど。何でだろうね、アヤベには知ってほしかったの」
「笑さん。僕は綾部喜八郎です。僕も何故かはわかりませんが、唐突に名前で呼んで欲しくなりました」


アヤベ…もとい喜八郎はまたいつもの無表情に戻って、淡々と言葉を紡ぐ。その様子に以前と変わりはないけれど、どうしてだろうか人肌の温もりを感じた。


「喜八郎、ラーメン延びてる」
「…僕はそれが好きなんです」


せめて今だけは、あなたの優しさはあたしのものであって下さい。


おままごと




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