私には苦手なものがいくつかある。朝早く起きること、ふにゃふにゃした茄子の感触、訳の解らない二次関数、そして、


「おはよ〜笑ちゃん」


隣の席の男の子。





彼の名前は山村喜三太。今年初めて同じクラスになって、一週間前の席替えでお隣りさんになった。ワックスでふわふわにセットした薄茶色の髪や、漂ってくる女物の香水の匂いから受ける印象通り、一言で言えばチャラい。そんな彼は隣の席になった翌日から、当然のように名前呼びをしてきた。注意しようとしたけど、へらへらした彼の笑顔に押し切られてそのまま。突っ込むのも面倒になって、結局放置している。隣の席だと言っても関わらないように心掛ければ、接点なんてないに等しい。だからこうして平穏な生活を送れ―…「笑ちゃん〜教科書忘れちゃったぁ、見せてちょうだい」…てはなかった。ちなみにこいつが教科書を忘れるのはこれで十回目だ。まだ一週間なのに。


「山村くんって授業受ける気ないの?」
「はにゃ?あるよ〜?」
「じゃあなんで教科書持って来ないの!」
「だから忘れちゃったんだよぅ」


ああもう!何だか苛々してきたから大人しく机をくっつけて、互いの机の真ん中に私の教科書を置いた。授業が始まって、私が一番後ろの席からは見にくい黒板を必死で凝視しているうちも、彼は机に隠して携帯を弄っている。やっぱり授業受ける気ないんじゃないか。相手はどうせ女の子だろう。いつも休み時間に女の子に囲まれて宜しくやってるし。視界の端に入って来るライム色のニクソンを嵌めた細い腕が、ひどく目障りだと思った。


「ねぇねぇ笑ちゃん、見て見て〜」
「は?今授業中…」
「いいからいいから〜」


小声で話し掛けてきたと思ったら、私のシャツを引っ張ってくる。このまま授業妨害されても困るので、大人しく彼が見せたがっている携帯の画面を覗き見た。


「………っ!?」


彼の鮮やかなショッキングピンクの携帯にでかでかと映し出されていたのは、白くてちっちゃくてぬめぬめしてそうな、


「なめ、くじ…?」
「違うよ笑ちゃん〜ナメ太郎だよう」


ナメ太郎…?名前まで付けているということはもしや飼っているの?どういう反応が求められているのか、凡人な私には分かりそうもない。これは冗談?なら笑い飛ばすべき?疑問符を飛ばしまくる私にお構いなしに、彼は自慢げに口の端を緩める。


「かわいいでしょ〜?ベストショットなんだぁ」
「…へ!あ、う、うん」


ペットだったのかよ。山村くんとナメクジという全く結び付かない関係に呆気に取られて、つい頷いてしまう。すると彼もやはり私の反応が意外だったのか、零れそうな程に大きな目を見開いた。そうして眉をへにゃりと下げて、愛おしそうな表情で、人差し指で優しく画面をなぞる。


「えへへ、女の子に褒められるのは初めてだね〜ナメ太郎」
「そう、なんだ」


その言い方だと私が女子じゃないみたい。いやむしろ女の子には嫌がられるってわかってるくせに私に見せたということは、彼は私を女と見做してないんじゃないか。だとしたらすごく失礼だ。しかし心底楽しそうな彼の様子に水を差すことは憚られたので、文句を今にも言い出しそうな口は噤んでおいた。私の沈黙をどう受け取ったのかは知らないけど、彼の話はどんどん盛り上がっていく。


「これがナメ助でーこっちがナメ子!ナメ子は一番の美人さんなんだぁ〜」
「…へー(逸らしたい、すっげえ目、逸らしたい…!)」


山村くんと反比例して私のテンションはどんどん下降していく。元々大して好きじゃなく、しかも区別もつかないナメクジを延々と見せられてるうえ、教卓からは数学の立花先生が青筋を浮かべてこちらを睨んでいる。心中お察しします、先生。授業中にこんな大声でナメクジトークされたら、誰だって腹立ちますよね。私は無実なんです。黒板にある問2がわかんなくて困ってるんです。だから、どうか巻き込まないで―…


「山村、松原、ナメクジの話がしたいなら廊下で思う存分話してこい」
「えっ!?」
「はぁ〜い。行こ、笑ちゃん」


えっ、ちょ、なんで!私の腕をぐいぐい引っ張っていく山村くんの背中を思い切り睨みつけるも、鼻歌交じりに前を歩く彼は気付かない。立花先生は半分ジョークだったらしく、ずかずか廊下に進む私達二人を半ば呆れたような目で傍観している。叱られてこの態度って、やっぱりこいつ神経図太い!廊下に出たところでやっと腕を離されたので、怒りを込めて力の限り頭を叩くと、彼は「はにゃ?」なんて首を傾げた。髪は一旦崩れてすぐに元に戻る。どんだけ念入りにセットしているんだか。


「どしたの?」
「どうしたもこうしたもないでしょ!何で出ちゃうのよ!問2の説明聞き損なったじゃない!」
「大きな声出すとまた怒られちゃうよ〜」
「あんたのせいでしょ!」
「あんた、じゃなくて喜三太だよぅ」


苛々に任せて吐き捨てた言葉に、山村くんは怒ったみたいに口を結ぶ。いや、おかしいから。なんで私が謝んなくちゃいけない状況になってるの。だけど悲しそうな山村くんを前にしたら、思ってることなんか何一つ言えず閉口するしかなかった。山村くんがぐっと近寄って来る。汗ばんでる私とは違って、山村くんからはいい匂いがした。どこの香水だろう。


「笑ちゃん、問2なら僕が教えてあげるよ。僕、数学得意なんだぁ〜」
「へ、あ、あり「その代わり」


山村くんは言葉を切って、勿体振るように笑う。チシャ猫みたくにんまり孤を描く口が、底知れぬ恐ろしさを醸し出していた。


「名前呼んでほしいな」
「…山村くん?」
「じゃないでしょ」
「…き、喜三太くん」
「せいか〜い」


恥ずかしくなって俯くと、頬に生温い感触が当たった。あ、また。ふわふわ揺れる前髪から覗く、ぎらぎらした捕食者の瞳。可愛い顔した策士から、私はもう、逃げられない。



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