じりじりと焦げそうな暑さの中、お抱え運転手の柏木に促され車を降りる。全身を襲ってくる強い陽射しに目を細めると、察した柏木が手際良く黒の日傘を私を覆うように差してくれた。小さく礼を言ってそれを受け取り、一時間程度どこかで時間を潰しておくよう申し付ける。柏木の恭しい承諾の一礼を見届け、私は一歩踏み出した。目指す場所は弓道場のみ。

立ち並ぶ近代的な建物を見て、きっと日本建築の道場は目立つだろうと踏んだ。だから柏木も連れて来なかったのに。案の定私は迷っていた。滅多に外出しない身体には歩き回るのさえ重労働だ。精神的疲労と肉体的疲労に耐えられなくなったので、景観の良い公園のような場所にあるベンチで一休みすることにした。夏休みなのだろうか、先生はおろか生徒の姿すら一人として見えない。携帯を取り出して時間を確認すると、柏木と別れてからゆうに20分は経っていた。これでは一時間で帰るのは難しい。どうしたらいいのか途方に暮れていたら、ボーイソプラノの声が頭上から降ってきた。


「不審者の方ですかー?」


顔を上げると、私とそう変わらない身長の男の子が怪訝そうな目つきで私を見下ろしていた。前髪が眉上で切り揃えられ、襟足だけが長い個性的な髪型だけど、顔立ちはとても整って美しい。不信感を隠そうともしない潔い態度に、私は怒りを通り越して吹き出してしまった。


「不審者に不審者たる自覚があるとお思いですか?」
「違うんですか?じゃあ貴女は何なんです?」
「部外者ですが、少なくとも不審者ではございません」
「失礼ですが、お名前は?」
「九条あやめと申します。以後お見知りおきを」
「ご丁寧にどうも。僕は木ノ瀬梓です」
「木ノ瀬さまですね、記憶致しました」
「…それで、ウチに何の用ですか?」
「あら、そうでした。弓道場がどちらか、ご存知でいらっしゃいます?」
「ああ、そこなら今からちょうど行くとこですよ。ご一緒します?」
「ええ、勿論です!」


木ノ瀬さまは私の歩幅に構わず、少し前をすたすた歩いていく。優しい方だと思ったのに、なかなかマイペースらしい。もうちょっとゆっくり歩いて下さらないかしら、と考えていたら、念が通じたのか木ノ瀬さまが振り返った。


「ところで、弓道部に知り合いでもいるんですか?」
「え…、ええ!まあ」
「へぇー…弓道部のあの面子にこーんな美人の知り合いがいるなんて驚きですね。誰ですか?」
「それは―…「あやめちゃん?」


突然耳覚えのある声が割って入ってきて、前方から制服姿の誉さんが歩いて来た。和服以外の格好は初めて見たけれど、背の高さもあって制服もよく似合っている。思わず見惚れていたら、誉さんにくすりと笑われた。はっと我に返ると木ノ瀬さまも同じようにいやらしい笑みを浮かべている。


「なーんだ。部長の彼女さんでしたかぁ」
「かっ…かのじょでは」
「彼女じゃないよ、」


誉さんの否定に何故だか胸にちくりと棘が刺さる。お付き合いしているわけではないのだから、当たり前の返答であるのに、私の心は靄が掛かったように晴れない。うっかり不安げに誉さんを見遣ると、彼は愉しそうに微笑んでいた。問い質すことも出来ずにいる私の代わりに木ノ瀬さまが「じゃあ狙ってもいいんですか?」なんて軽口を叩く。


「彼女じゃないけど、大切な婚約者なんだ。悪いけど木ノ瀬くん。先に行って部活を始めておいてくれる?宮地くんに伝えれば大丈夫なはずだから」
「ちぇっ…はーい。じゃあ九条さん、また機会があれば」
「はい!ここまで案内して下さり、ありがとうございました。ごきげんよう、木ノ瀬さま」


誉さんは私の肩をぎゅっと引き寄せて、木ノ瀬さまに指示を出す。木ノ瀬さまが手を振ってくれるので、私も胸の前で小さく振った。すると必然的に誉さんと二人きりになる。こんなに近くに殿方がいるのは生まれて初めてで、心臓が激しく脈打っているのがわかった。誉さんに聞こえてしまわないだろうか。


「会いに来てくれたんだね、すごく嬉しいよ」
「し…仕方なく、です。約束致したのに参上しない訳には行きません」
「それでも君に会えただけで、僕はこの上なく幸せだよ」


至近距離でそのような甘い言葉を囁かれては、顔を赤くする他ない。突破口を何とか見つけようともがくが、上手なかわし方なんて思いつかなかった。私は苦し紛れに話題を変えようと試みる。


「誉さん…今日の部活はございませんの?」
「あぁ、今日は僕だけメンタルトレーニングなんだ」
「メンタルトレーニング…?」
「僕、プレッシャーに弱くって、試合になると思うように実力を発揮出来ないんだ。だから少しでもプレッシャーを跳ね退けられるよう、鍛えてるんだけど…みんなには迷惑掛けられない、みんなのために勝たなくちゃ、って思うといつも弓がぶれてしまう」
「…私には、お掛けになるくせに」
「え?」
「私が誉さのためにどれだけ心血を注いでいんるか、お知りにもならないで…好きなことを好きなだけなさって、私の知らない方々と絆を深めて、…誉さんは、ずるいです」
「…あやめちゃん」


決して本人には言うまいと心に決めていた。毛嫌いしていた昔は勿論、正式な婚約者になってからは特に。誉さんが悪いわけではないし、これはただの私自身の我が儘だから。それなのに、口は勝手に動いて本心を曝け出してしまった。辛そうな誉さんに我が儘をぶつける私は、なんて自己中心的なんだろう。


「あ…私、何を…申し訳ありません!言葉が過ぎました」
「いいんだよ、あやめちゃん」
「良くありません!私の申すことなどお気になさらないで…」


そこで私の世界は止まった。誉さんは私の肩に顔を埋めて、深く深く息をする。私は逡巡した結果、誉さんの大きな背中にそっと腕を回した。


「あやめちゃん」
「は、い…」
「縛りつけてごめんね。君の自由を奪ってごめん」
「…誉さんが謝ることではございません。私だって九条の娘、きちんと弁えているつもりです」
「違うよ、あやめちゃん。僕は一人の金久保誉として一人の九条あやめを愛しているんだ。自由にはしてあげられないけど、その分愛してあげるから。僕を、信じて」
「誉さん…」


どうしよう、嬉しくて泣きそう、だなんて。いつの間に私は誉さんをこれほど恋慕っていたのだろう。きっとずっと、心の中で求めていたのだ。愛し愛される、普遍で恒久の幸せを。誉さんの髪も目も鼻も唇も手も指も背中も、どれもがいとしい。誉さんを形作る全てが愛おしい。


「誉さん、約束してください」
「何をかな?」
「私、インターハイとやらの応援に必ずや参ります。その時はみなさんに迷惑を掛けないように、ではなく私の"ため"に優勝してください」
「あやめちゃん、」
「…だめですか?」
「…ううん、ありがとう。君のために全力を尽くすよ。必ず優勝する。その日までは―…」


言葉を途中で切った誉さんはこの間と同じように、私の頬に口づけた。細長い人差し指を私の唇にそっと押し当てる。(おあずけ)唇の動きだけでそう告げる誉さんはやっぱりどこか意地悪で、私の心は忙しなく跳ね回るのだった。

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