忙しい日々をこなしているうちに、いつの間にやら桜の蕾も膨らみかける季節に差し掛かっていた。庭師が手入れを欠かさない庭園は色鮮やかな花こそないものの、立派な木々や足元の草の青々しさには目を見張る。私はこの家がそれなりに好きだった。場にそぐわないセーラー服を脱ぎ捨て、お手伝いさんに着付けてもらう。別に自分で出来ないこともないけれど、今日は、誉さん、あの金久保の子息との数年振りの顔合わせだ。万全の準備で臨むに越したことはない。中紅色を地に柔らかい色合いで白薔薇が描かれた小紋に、色とりどりの花の刺繍が入った半襟を合わせ、草花と蜂の豪奢な帯を蒲公英の帯留めで締める。何とも春めかしい、この季節にはぴったりの装いだと思う。髪は結い上げ一つにまとめ、化粧も直してもらった鏡台に映る自分と向き合った。不機嫌な表情を打ち消すように、無理に口角を上げると何とも言えぬ微妙な顔が出来上がる。このままでは、誉さんの許婚、ではない。深呼吸してもう一度笑顔を作る。今度はいつものように笑えた、気がした。



顎と腰を引き真っ直ぐに伸びた背筋を意識しながら、姿勢良く廊下の木目に沿って歩く。既に誉さんをお通ししているらしい座敷は目と鼻の先だ。きっとお父さまお母さまも臨席していることだろう。誉さんの妹さまでもいらっしゃれば場の雰囲気も幾分か温まるんだろうけれど、今日の話の内容からいってそれはないはず。柄にもなく緊張している自分が恥ずかしくなって、もう一度深い呼吸をし、形式張った所作で襖を開けた。すぐさま視界に飛び込んでくる、見慣れた両親と水色の頭。青鈍の着物に身を包んだ誉さんは数年前よりもずっと背も高く、表情も大人びていて、無意識に高鳴った胸を疎ましいと思った。


「失礼致します」
「あら、あやめさん。やっとお帰りになられたのね。誉さまが待ちくたびれていらっしゃいますわよ」
「いえ、お二人と話していたのであっという間でしたよ」
「はは、嬉しいことをおっしゃっる。…さて、後は若い二人でお過ごし下さい。あやめ、くれぐれも誉さまに失礼のないようにな」


二人が出て行くと、誉さんはふぅと息を漏らした。誉さんの通う学園は一般的なところだと耳にしたし、このような場は慣れていないのだろう。しかし正座を崩し、座り直すまでの動作の一つひとつは洗練されていて、既に家元の風格を匂わせていた。


「あやめちゃん、久しぶりだね」
「お久しぶりに存じます」
「少し見ないうちにすっかり綺麗な女性になっちゃって。その着物もよく似合っているよ」
「…相変わらずお口がお上手ですこと」
「僕の本心なのになぁ…。正座も堅苦しい敬語もやめて、自由にしてくれていいのに」
「恐れ入りますが、これが私の素でございますので」


先程練習した通り、にこりと微笑みを浮かべると誉さんは途端に眉を寄せる。そして苦々しい表情でそれなら仕方ないね、と頷くのだった。勿論あながち嘘ではない。正式な場での社交は当然のこと、家族との会話から友人とのお喋りに至るまで、私の言語生活は礼儀と節度から成り立っている。今更、一般的な女子高校生のように振る舞えと言われてもどうしようもないのが事実だった。


「僕の名前を呼んでみてくれるかな?」
「……誉さん?」
「さん付けはやめて、と言ったら?」
「誉さんは誉さんですもの」
「はぁ…君が夜久さんならなぁ…」
「夜久さん…どなたですか?」
「星月学園唯一の女の子で、僕の部活の後輩でもあるんだ。真面目で気立てが良くて素直なとてもいい子だよ」
「…そうですか。私ちっとも存じ上げませんでした」


婚約者の口から他の女性の名前が出たことも、彼女と比較されたことも、以前の私ならばどうでもいいことに分類するはずなのに、私は確かにそれに苛立ちを覚え、同時に沸々と湧き上がる独占欲に近い感情に戸惑っていた。奔放に生きる彼を妬ましいと、羨望と憎悪の入り混じった目で睨んでいた私は何処に消えてしまったのだろう。これでは私は、心身共に誉さんの婚約者ではないか。途端に自分が恥ずかしくなる。


「やきもち、妬いたかな?」
「なっ…!そんなはずございません!私は誉さんのことなど…何とも、思ってません…」
「ふふっ、顔真っ赤だよ。あやめちゃんは可愛いね」
「だ…騙されませんよ…」


顔に熱が集まっていくのを感じて、無作法ながら顔を背ける。自らの醜態を誉さんに見せるわけにはいかなかった。誉さんは優雅な仕草で立ち上がり、正座したままの私の傍に寄る。俯き見つめていた畳に影が覆い被さったので、ゆっくりとそれを辿って顔を上げると、間近に誉さんの整った顔があった。驚きの余り声も出せない私に、誉さんは余裕そうに笑い、私の頬に一度だけ唇を落とす。反射的に身体を反らし、両手で頬を抑えても後の祭り。誉さんは次に見た時には既に、私の入って来た襖の前に移動していた。上げようとした抗議の声は、誉さんの胡散臭い微笑にやり込められる。


「また来るよ。君さえ良ければ今度弓道の試合を見においで。未来の旦那さんの応援も、立派な奥さんの務めだと思わないかな?」
「…有り難く伺わせていただきます」


あんな風に言われたら、私が断れないのを誉さんは知っている。知っていてわざと言うのだから、質が悪い。一人残された私は、朝よりもずっと深い溜息を吐くのだった。ほんとうにあの人はずるい。

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