なんてついていない一日なんだろう。制服にべっとり付着した青の絵の具に視線を落として、私は深く溜息を吐いた。とぼとぼ手洗い場に向かう足取りも何となく重い。廊下の窓から空を見遣ると、私の気持ちなんて知ったこっちゃないとでも言いたげに青々と晴れ渡っていた。卒業式まであと二週間、指折り数えてみる。美術室に置き去りにした真っ白なキャンバスを思い返すと、再び溜息が漏れた。


「おやまぁ、李紗じゃないの」
「あっ、綾部先輩…」


肌を刺すように冷たい水に耐えながら、何とか絵の具を落とそうと躍起になっていると、隣に人の気配がした。ちらりと視線を向けるより早く、綾部先輩が私に気付いて声を掛けてくれた。二月の下旬でまだ寒いのか、先輩は大きめのサイズの黒のカーディガンから指先だけをちょこんと出している。はあ、と吐いた息が白く濁った。そういえばここの廊下は冬場に特別冷え込む。


「こんなとこで何してるんですか?先輩もう自由登校じゃ…」
「ん?置きっぱなしの作品を取りに来いって言われたんだ」
「そうですか…」


多分それを言ったのは顧問の斜堂先生なんだろう。私は心の中で彼に感謝した。もう卒業式まで会う機会はないと思っていたから、思いがけない嬉しさに頬が緩む。急にへらりと笑い出す私に、綾部先輩はいつものように「李紗は相変わらず変な子だね」と淡々と言ってのけた。先輩はこう、オブラートに包むという言葉を知らないのか。それも先輩らしいと言えばらしいけれど。というより先輩に言われたくない。


「李紗は何してるの?」
「…見てわかりませんか?」
「汚しちゃったの?相変わらずアホというかドジというか間抜けというか」
「貶すなら一言にしてくれませんか!」
「奇特な子だねえ」
「(1番嫌なのに収まった気がする…)」


先輩とそんな話をしていたら、ようやく袖の絵の具も落ちた。濡れてて気持ちが悪いけど、ストーブに当ててれば直に乾くだろう。蛇口を捻って水を止め、先輩に一言行って美術室に戻ろうとした。


「僕も美術室行くんだから、どうせなら一緒に行こうよ」
「いいですけど、長居はしないでくださいよ」
「李紗は生意気になったみたいだね。それが先輩に対する態度なの?」
「いひゃい!すみません!調子乗ってすみません!」
「わかればいいよ」


先輩に摘まれた頬がひりひり痛む。仮にも女の子相手に力入れすぎだ。なんてことを口に出したら、更に酷い仕打ちが待っていること請け合いだ。仕方なく口を噤む。全く納得出来ないのに、私がこの人を許してしまうのは、


「(好きだから、なのかな)」
「李紗ー?先入るよ」
「はっ…はい!」


ガラガラ古めかしい音も気にせず、綾部先輩は教室に入って行く。慌てて私も後に続いた。生暖かい空気が充満する教室で、先輩は早速私のまだ何も描かれていないキャンバスを目に留める。


「これ、李紗の?」
「はい、まだ全然ですけど」
「李紗が静物画じゃないの、珍しいね」
「あー…はい」


あなたの真似をしてみたんです。とは口が裂けても言えない。綾部先輩は自由なタッチで描かれる、ダイナミックかつ繊細な抽象画を得意としていて、その素晴らしさは公にも認められ、美大への進学が決まっている。私はと言えば、可もなく不可もない在り来りな模写しか出来ない。絵を描くのは大好きだけど、所詮趣味レベルであり、高校までだと悟っている。美大になんか行けない。先輩と会うこともなくなるだろう。先輩の背中は、卒業と同時に手の届かないところに行ってしまう。だから、絵を描こうと思ったのだ。先輩と同じ手法で、先輩がかつて描いた空を。それを先輩に渡せたら、高校時代の思い出を完結させることが出来ると思った。絵も綾部先輩への恋心も、私は来年この校舎に置いて行かなくちゃいけない。


「何だか僕みたいだね」
「えっ…そうですか?」
「大まかな下描きもしないなんて、李紗じゃないよ」
「…先輩みたいな絵を、描きたかったんです」


先輩はきょとんと目を丸くさせた。おやまぁ、小さく呟いて、私のキャンバスを凝視する。


「どうしてそんなこと考えるかなぁ」
「だって、先輩の絵、すごい。私の絵って誰にでも描けるようなのだから、羨ましくて」
「そんなことないよ」
「そんなことあります」
「僕は李紗の描いた絵、好きだよ。丁寧で一生懸命で絵が好きって気持ちが存分に伝わってくるもの」
「そんな、」


私は今この瞬間死んでもいいような心地がした。先輩が私の絵を褒めてくれている。他者に興味を持たない先輩が、だ。それだけで十分な気もしてきた。私の絵に費やした二年間は無駄ではなかったのだから。なのに先輩は、なおも爆弾を投下する。


「好きな子が描いた絵を、好きにならないわけないじゃない」


その瞬間、私の思考は停止した。真っ赤になって固まる私を尻目に、先輩は面白そうにくつくつと笑いながら、荷物を紙袋に詰め終える。近寄ってきた先輩からは嗅ぎ慣れた匂いがした。先輩はにっこり笑う。私は引き攣った笑顔すらも返せない。


「じゃあね、李紗。卒業式楽しみにしてるよ」


全てを見透かしたような言葉を残して、先輩は帰って行った。暫くしてようやく意識を取り戻した私は、すぐさま絵の具を片付けて、モデルとなるものを探し始めた。卒業式まで、あと二週間。




「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -