雷蔵は昔から優柔不断な子供だった。あらゆる選択肢を考慮する慎重さと、何かのために他の何かを捨てきれない優しさを併せ持っていた。母親から夕飯の献立を求められて、何にすべきか悩んでいるうちに夕餉の時刻になってしまったことも多々ある、何とも愚直で愛しい男だった。ある日わたしは彼に、家族旅行の土産として掌ほどの大きさの砂時計を贈った。温かみのある木の枠に、薄桃色の砂を入れた瓢箪型のガラス容器が嵌まっている、少し女の子らしいデザインの砂時計だった。可愛らしすぎたかも、とちょっぴり後悔したが、しかし雷蔵は心から嬉しそうにありがとう、と笑ってくれたので安堵の溜息に変わった。


「雷蔵の迷い癖を直すために、選んだんだよ」
「どういうこと?」
「この砂時計はね、三分間で砂が落ちきるの。だから、砂が落ち終わるまでに、雷蔵は絶対に結論を出すこと。そうしなくちゃ、雷蔵はいつまでも悩み続けるでしょ?」


今思うと、子供らしい浅はかな考えだった。あの雷蔵が三分間で物事を決めるなんて不可能だったろうに。だけど雷蔵は力強く頷き、そうするよ、と宣言した。あの日以来、雷蔵は三分以上迷わない。





「大事な話があるの」


わたしがそう言って、雷蔵を我が家のリビングに呼び出したのは七月の終わりだった。夏休みに入ったはいいが、そこは受験生。毎日机にへばり付いて教科書と格闘しているわたしたちは、終業式の日よりお互い少し窶れていた。だけど雷蔵の笑顔はちっとも変わっちゃいない。テーブルを挟んで向かい合って、どうしたの?と首を傾げる優しい声も。何もかも。


「わたし、雷蔵のこと一人の男としてずっと好きだった」


雷蔵の目が大きく見開かれた。信じられない、とでも言いたげに口がぱくぱく空気を求める。今まではただの幼なじみだったから、雷蔵が驚くのも無理はない。むしろ気付かれてなかった自分を褒めてあげたいくらいだ。だけど、本当に伝えたいことは、それだけじゃない。


「それとね、わたし、もうすぐイギリスに行くの。お父さんの仕事の都合で、いつ帰って来れるのかもわからない」


雷蔵は驚きを飛び越えてしまったのか、口をぽかんと開いたまま、固まってしまった。一緒の大学に進もう、って約束してたもんね。ずっと傍にいる、って誓い合ったもんね。あくまでも仲の良い幼なじみとして、だけど。わたしは雷蔵に持って来てもらった砂時計をテーブルに置く。すっかり古びたそれは、わたしと雷蔵が共に過ごした年月を教えてくれる宝物だ。雷蔵は判別しがたい複雑な表情でそれを見守る。完全に下に溜まった砂を確認すると、わたしはゆっくり瞼を下ろした。


「家族はみんな付いていくけど、わたしはもうじき大学生だし、日本にいてもいいって言われたの。わたしはずっと傍にいたいけど、雷蔵が同じ気持ちじゃないなら意味がないもん。…雷蔵。わたしが必要なら、三分後にそこにいて。必要ないなら出て行って。そうしたら、雷蔵のことは諦めてイギリスに行く。雷蔵に決めて欲しいの。わたしは目を瞑ってるから」


小さく息を吐き出して、砂時計をひっくり返した。雷蔵が息を呑むごくりという音が耳につく。僅かに電灯でじらじらするだけの真っ暗な視界では、雷蔵の心は勿論表情すらも読めない。



さらさらさら。滞りなく砂が落ちていく音だけが、やけに現実味を帯びている。きっと目を開けたとき、雷蔵はいないだろう。雷蔵は優しいから、わたしを中途半端に甘やかすようなことはしない。気持ちがないなら、必ずすっぱり捨ててくれる。わかってて訊いたのは、多分けじめがつけたかったから。雷蔵がいなくても生きていける、雷蔵を忘れられる、強さ。わたしはそれが欲しかった。



さらさらさら。一秒一秒が普段よりずっと長く感じる。自分が選んだ道なのに、わたしは既に泣きそうだった。向かい側にはまだ雷蔵の気配がある。雷蔵、砂が落ちきってしまうよ。お別れの瞬間まで、あと少ししかないよ。


そのとき、


雷蔵が立ち上がるのがわかった。流れ落ちる砂の音と共に、裸足がフローリングをぺたぺた歩く音が聞こえてくる。わたしは堪らず耳も塞いだ。ドアが閉まる音は聞きたくなかった。それはきっと何よりも辛い拒絶だから。



さらさら…、。音が止んだ。永遠のようにも思えた三分間が終わりを告げる。躊躇いながら瞼をうっすら上げると、そこにはやはり誰もいなかった。わかってたのに、胸が張り裂けそうだ。いつもそこにいてくれた雷蔵はもういない。わたしは、独りで生きていかなくちゃいけない。それでも、


「…っ…ら、い…ぞ…っ!」


気付いたら両目から涙が溢れていた。頬を伝って、テーブルに水溜まりを作って、それでも止まることを知らず流れてくる。わたしは拭うことも出来ずに、子供のように泣きじゃくった。すき、すき、だいすき。何度口にしても足りないくらい、他の誰にも何にも代えられないくらい。テーブルに突っ伏すとその衝撃で砂時計は床に落ちた。運悪く横から落ち、そのままころころ転がっていく。何となく滲んだ視界で追い掛けると、砂時計は何かにぶつかって回転を止めた。あ、れ?そんなとこに障害物なんてあったかな。


「李紗」


なぜか雷蔵がわたしを呼ぶ幻聴まで聞こえてきた。これは夢?わたしはいつの間にか眠ってしまったのだろうか。駄目だな、夢にまで出てくるなんて諦めきれてない証拠じゃないか。わたしはいつになったら吹っ切れるのだろう。でも、今はまだこの夢に浸っていたい。


「雷蔵?」
「李紗」
「えへへ、夢の中でも、雷蔵に会えて、嬉しいよ」


わたしが表情筋を緩ませると、雷蔵は仕方ないな、と微笑んだ。さすがずっと見てただけはある。わたしの想像の中の雷蔵は、本物のような笑顔を見せた。


「夢じゃないよ、李紗」
「夢だよ。雷蔵は帰っちゃったし、わたしを呼び捨てないもん」


わたしが創り上げた雷蔵は砂時計を拾い上げると、ぺたぺた歩み寄ってきて、わたしが座るソファーに一緒に腰掛けた。二人分の重さで沈むソファー。夢なのに現実的だ。


「李紗、ちゃんと僕を見て。夢じゃなくて、ここにいるよ」


真剣な目をした雷蔵の腕の中に閉じ込められる。夢って五感があるんだっけ。雷蔵の心臓の鼓動が鼓膜から伝わってくる。あったかい体温が体を包む。これは、本物?夢じゃなくて、雷蔵は、ここに。


「…らい、ぞう?」
「李紗と離れるなんて考えられない。僕もずっと、李紗が好きだったよ」


雷蔵の唇がわたしの鼻先を掠める。夢じゃないの?信じていいの?わたしは、雷蔵の傍にいていいの?雷蔵は砂時計を再びテーブルの上に乗せて、不敵に笑う。


「三分間ちょうだい。夢じゃないって信じさせてあげるから」


さらさらさら。砂が落ちる。ソファーが軋む。わたしは雷蔵に、溺れてゆく。


「ずっと傍にいようね」


砂が落ちきったとき、にっこり囁く雷蔵に、わたしはこくこく頷くしか出来なかった。


きみの羊水

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