午前4時。あたしはこの時間が一日で一番好きだ。ベッドから抜け出てベランダに出ると、剥き出しの素足に冷たい空気が触れる。この空気も好き。まだ多くの人が吸い込んで吐き出してを繰り返していないそれは、ひどく綺麗に感じられる。きっと二酸化炭素も少ないに違いない、と思ったところで化学の授業で習った空気の成分比を思い出した。窒素と酸素、アルゴンに二酸化炭素。それに気付いた途端、空気にロマンチシズムを求めるのが馬鹿らしくなった。科学の発達した今、大抵のことは理屈で証明されている。こうやって早朝からセンチな気分に浸るあたしだって、単なる一生物に過ぎないのだ。普段の喧騒を忘れた都会は幾分か静かに佇んでいて、それも酷く空虚に思えた。あたしたち人類が発展を重ね積み上げたものは、こんな無機質で無意味な塊なのか。あたしは、こんな世界で何を求めて生きるのだろう。どうでもいいことを取り留めもなく考えていると、後ろから間延びした声が聞こえてきた。振り向くと目に痛い金色の頭を揺らしながら、タカ丸がのそのそ歩いてくるところだった。


「李紗ちゃぁん。おはよ〜もう起きてたの?」
「おはよ。まだ寝てていいのに」
「ん〜でもぉ…李紗ちゃんが外出てるの見えたし…」
「別に何にもないよ」
「そんなことないよ。朝焼けと李紗ちゃん、すごく綺麗」


寝ぼけ眼のタカ丸はそう言って、目尻を下げてへにゃりと笑う。何も纏っていない上半身は適度に引き締まっていて、男のくせに滑らかで白い。タカ丸の方が綺麗だよ。あたしが漏らすと、タカ丸は口を尖らせて不服そうにする。あたしはそれがおかしくて笑う。さっき言いそびれたけど、あたしがこの時間を好きな最大の理由はこれ。タカ丸を独り占めできる、唯一の時間だから。


「朝ご飯作るね」
「うん〜ありがと」
「…今日は誰のところ?」
「ん、と〜エリちゃんに呼ばれてたかな」
「そっかあ、」
「また今度来るよ」
「…うん」


あたしは上手く笑えてる?好きなものを持ち続けたいなら、時には我慢しなくちゃいけないんだって。





タカ丸は、美容師の卵だ。卵と言ってもその技術はもはやカリスマと呼ばれる父親に並ぶ程であり、予約もいっぱい入るし、女の子からもモテる。女遊びが激しいとかよくない噂も数え切れないほど聞いてたのに、あたしは愚かにも彼に恋をしてしまった。パーマをかけたい、前髪を切りたい、トリートメントしてもらいたい、口実を作っては何度も会いにお店に行った。予約より少し早めに店に着けば、可愛い女の子の髪を切りながら楽しそうに話す彼の姿を何度も見ていたのに。あたしはやめれなかった。諦めれなかった。夢を見ていた。だからあの日、あの雨の日に部屋に招いてしまったのだ。


「雨、すごいねぇ〜いきなり降り出すからびっくりしちゃった」
「です、ね。ちょうどあたしの家が近くて良かったです」
「でも李紗ちゃん!よく知らない男を家にあげちゃだめだよ」
「タカ丸さんだから、いいんです」
「…李紗ちゃん?」
「あた、し。タカ丸さんが、好きなんです」


あたしが精一杯の勇気を振り絞って想いを伝えると、彼はいつものように困った笑顔を浮かべた。やっぱり彼女がいたのかな、こんなの迷惑だったかな、後悔と反省が頭の中をぐるぐる駆け回る。だけど、彼の答えはある意味予想通り、だけども想定外だった。


「僕も李紗ちゃん好きだから嬉しいよ」
「ほん、と…ですか?」
「うん。だけどね、」


他の女の子も同じぐらい好きだから、誰か一人なんて選べないんだ。彼は申し訳なさそうに言う。あたしは、どう返したんだっけ。そうだ、それでもいいから、付き合ってください、って。


「じゃあまたね」
「うん、また」
「学校にはちゃんと行くんだよ〜」
「わかってるよ」


ぶんぶん大袈裟に手を振って、タカ丸はどこかに消えていく。仕事場か、それとも他の女の元か。どこだっていい、どうせあたしには知りえないことだ。リビングの掛け時計に視線を遣る。午前6時。そろそろ準備を始めなければ、学校に遅刻してしまう。よこしまな考えを振り切るように、あたしは一人分のコーヒーを煎れた。





家に帰ると、留守電が一件入っていた。四国に赴任したパパについていったママからの電話。いくら高校生といっても、娘一人を都会に置いておくのは不安らしく、しょっちゅう気遣いの電話が掛かってくる。ママは、この家に不定期に訪れる男の存在があることも、あたしと彼が既に一線を越えてしまったことも、何にも知らない。少しの罪悪感と背徳感を覚えはするものの、だからといってあたしは何をするわけでもない。家族だって所詮は他人だ。あたしは昔から妙なところが冷めていた。いつものように「人には気をつけなさいよ。いい人に見えても本質がどうかなんてわからないんだから」と録音されたママの音声が締め括ると、誰もいない家は静まり返る。本当に何にも知らないママ。いい人に見えなくたって、いい人じゃなくたって、どうしようもなく惹かれちゃう人が、世の中にいるんだよ。タカ丸は来ないと言っていた。晩御飯どうしようかな、冷蔵庫の中身を考えていると、初期設定の電子音が静寂を破った。あまり使用頻度の高くない携帯が、カーディガンのポケットで唸る。発信人を確認してから、電話に出た。


「もしもしタカ丸?」
「…あんた、誰?」


高く、鋭い声。一瞬で悟る。タカ丸の、他の彼女の内の一人だ。電話越しの後ろではタカ丸が「やめなよエリちゃん〜」と彼女を止めている。


「タカ丸の浮気相手はあんた?」


この女の人、馬鹿じゃないのか。浮気相手なんてお互いさまだ。あたしもあなたも、本気じゃないのに。苛々した。彼女にも自分にも。自分から出た声は、思ったよりずっと低くて冷たくて驚いた。


「あたしもあなたも、ただの遊び相手でしょう?」


自分で言った言葉なのに、あたしの胸には棘が刺さる。女の人、エリさんだっけ、エリさんはヒステリックに叫び始めた。タカ丸の携帯が、恐らく床に投げ付けられる。ガチャンとガラスの割れる音。どうしよう、タカ丸が怪我するかもしれない。


「もしもし、李紗ちゃん?」


こんな状況なのにふにゃっとしたタカ丸の声が、やけに不似合いだった。あたしは考える暇もなく、タカ丸に向かって叫んでいた。





窓を見れば、いつの間にかぽつぽつ雨が降り始めていた。漂い始めた湿気に眉を顰めていると、すぐに大降りに変わる。俗に言うバケツをひっくり返したような、雨。あたしの心を映したように、ざあざあ降りしきる。全部洗い流してくれたらいいのに。きたないあたしの嫉妬も絶望も嫌悪も悲哀も、愛しさも。

ピンポーン。

静寂に機械音が割って入る。何度も何度も鳴り止まないそれに腹が立って、玄関までどたどた走って行ってドアをこじ開ける。地面に座り込んで俯いている、タカ丸がいた。いつも盛っている髪は雨に濡れて元気をなくしてるし、ブランドものの服も色を変えて肌に張り付いている。だけど、タカ丸だ。


「タカ、丸」


恐る恐る声を掛けると、彼の頭が上がる。顎の辺りに入った赤い線からは血が滲み出てるし、頬は赤く手の平の形に腫れている。なのにあたしと目が合うと、タカ丸はへらりと口許を緩めた。


「李紗ちゃん」
「エリ、さんは?」
「すごく怒ってたけど、ずっと謝ってたら許してくれたよ」
「その怪我は?」
「エリちゃん、怒ると加減わかんなくなっちゃうんだ」
「…そっか」


あたしには、これ以上何も言えない。口を噤むと、雨の音だけがやたらと耳に障る。本当は、聞きたいことがいっぱいあるのに。どうして喧嘩したの?どうしてあたしに電話が掛かってきたの?どうして、ここに来たの?


「僕の携帯、見て」


タカ丸はそう言って自分の携帯をあたしに差し出す。「発信履歴の一番上」タカ丸の指示通り操作したら、ずらりと並んだ女の子の名前が出て来た。その一番上にあるのは、さっき発信したばかりのあたしの携帯番号。登録名は―…


「エリちゃん、それ見ちゃって。今日ほんとはね、エリちゃんにお別れをしに行ったはずだったのに。結局エリちゃんを傷つけちゃった。僕って最低だね」
「な、んで?何で、」


だって、あたしはたくさんの彼女の中の一人で。あたしと同じようにタカ丸を好きな女の子なんていくらでもいるのに。


「さっき李紗ちゃんが言ってくれたこと、すごく嬉しかったんだよ。今度は僕から、告白してもいいかな」


タカ丸の冷たい身体があたしをおもむろに抱きしめる。タカ丸の香水の匂いが鼻腔をくすぐった。


「好きだよ、李紗ちゃん」
「…あたしも、大好き」


タカ丸の携帯の画面では、「特別」の二文字が光っている。あたしには神様なんて要らない。この人さえいれば、それだけでいい。雨雲の隙間から顔を出した太陽が、あたしたちのこれからを照らしてくれているような、そんな気がした。





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