メロスは激怒した。という一文で始まる、この間再読したばかりの日本文学の粗筋を頭に思い浮かべながら、わたしは主人公の彼のように必死に歩いていた。降り懸かる困難が待ち受けているわけではないし、わたしには目的地も制限時間もない。ただ、宛てもなく逃げるしかないのだ。それは他人の命を握る彼に比べれば気楽なものかもしれない。しかし、とにかくわたしは困っていた。初めて自分の足で踏み出した世界は人と音と光の洪水で、地名も標識も全くわからない。人の波に沿って辿り着いた駅ではお金がないと駄目だと言われた。当たり前のように運ばれてきた食事もない。これが空腹というものか、一つひとつ学びながら歩き続ける。いつの間にか白のバレエシューズは擦り減って、親指の辺りに穴が開いていた。額から流れる汗が夜風に冷やされて、ぶるりと寒気を覚える。それでも広がった夜空の下を歩ける今が、人生で一番幸せなのだと信じていた。


「池、袋…?」


大きく掲げられた駅名を見上げても、わたしには自分がどれほど歩いてきたのか計り知ることは不可能だった。ただ同じように人が群れ、流れ、一つの方向に吸い込まれてゆく。その中に同年代の少年を見つける度に、溜飲を下げきれない複雑な感情でいっぱいになった。わたしは、親が決めた婚約者から逃げてきたのだ。顔も名前も知らない相手に一生を捧げるなんて、どう考えても可笑しな行為だと思った。その実、わたしは恋や愛といった感情を知らないけれど、少なくとも数多の文学作品の中でそれらは崇高で甘美なものとして描かれていた。知らないまま、より堅固な檻に縛られるなんて真っ平御免だ。


「さむい、ひと、いっぱい…きもち、わる…い」


それでも、わたしはほんの少しだけ自分の浅はかさを後悔していた。読書から得た知識を活かせば、現実の世で生きるにはお金が必要なことくらいわかりそうなものなのに。充足した衣食住はわたしに何も教えてくれなかったらしい。寒さと疲れと、それから人混みがわたしの精神を疲弊させていく。もはや立っているのもやっとだ。駅の大きな柱の一つに寄り掛かって、大きく息を吐き出した。


「ねぇねぇどうしたのー?」


突然頭上から若い男の声が聞こえてきた。くらくら痛む頭を押さえながら、そちらの方を見遣る。頬を緩ませた男の人は、わたしの顔を見るなり「うおっ!当ったり〜!」とガッツポーズをしてみせた。近くの売り場で宝くじでも買ったのだろうか、そんなことをわたしに言われても一緒に喜んであげる余裕もないのだけれど。


「君一人なんだよね?」
「……?はい」
「じゃあ俺と遊ぼ!決まり!」
「いえ…急いでますから」
「そんなこと言ってさっきからそこにずっと居たじゃん?」
「休んでただけです」
「つれないなー1時間だけ!」


何だろうこの人。段々と距離も近付いてくるし、どうしたらいいものか対応に困る。きょろきょろ周りを見渡してみても、わたしたちに気付いている人はいない。わたしが自分で何とかしないといけないけれど、他人への応対方法はよくわからない。おまけに体調も芳しくないし、逃げる体力もないし、どうすればいいのだろうか。


「いたいけな女の子に無理強いするのはいただけないね」
「は?…ひっ!お前…!」


悶々と悩むわたしの前に、救世主が登場した。白衣を纏った痩身の人。この出会いが、わたしを変え、あの人を変え、全てを狂わせるものだとは知りもせず、池袋の街は奇しく蠢いていた。

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