僕の朝は少し早い。朝靄が煙る中庭を、まだ誰にも触れられていない露の載った野草を踏み締めながら逍遥する。昇りかけの太陽の弱い光は心地良く朝の訪れを知らせてくれた。空を仰げば伝統と趣を纏い、聳え立つ我が母校が視界いっぱいに腕を伸ばす。彼女が見たであろう景色をなぞりながら過ごすこの時間は、僕にとってかけがえのない習慣になった。あれからもう、一年も経つ。



初めて彼女を見た瞬間からずっと、僕は彼女に夢中だった。空を見上げる憂いを帯びた横顔は、今まで見てきたどんな女の子よりも美しかったし、小さな背中は儚げで誰よりも守ってあげたいと思った。朝の肌寒い空気の中、ふんわりと微笑む陽だまりのような彼女はまるで天使みたいで、僕は口許が自然に緩むのを堪えきれなかったのを覚えている。五年目にして一度も見たことのない彼女。学園一有名なグループの一員だと自負する僕を知らない彼女。好奇心が沸き起こるのは当然の摂理だった。話してみると意外と明るいことに驚き、不意に大声を上げて倒れる彼女に更に驚かされた。思い返してみると、彼女にはずっと振り回されっぱなしだったな。



ゆっくり歩を進め、温室にまでやって来た。花壇の隅には彼女が植えたモーニンググローリーの鉢植えが無造作に置かれたままだ。大して手入れをされている様子もないのに、紫暗色の漏斗形の花が毎朝僕を迎え入れてくれる。朝しか咲かないこの花を彼女はえらく気に入っていた。



「東洋にはね、朝顔の花一時って言葉があるの」
「どういう意味だ?」
「朝顔の花は咲いてから僅かな時間で萎んでしまうの。だから儚いことを譬えてそう言うのよ」
「へー!君は物知りだね!まるでムーニーみたいだ!」
「本を読むのが好きなだけよ」
「何だか切ない花なんだね」
「ええ…でも私は、儚いからこそ美しいこともあると思うわ」


そう言って遠くを見つめる彼女に、見惚れるばかりで何も言ってあげられなかった。あの時には気づいておくべきだったんだ。彼女が抱えていた死への恐怖に。



長い散歩を終えて、彼女が一番多くの時を過ごしただろう医務室まで辿り着く。一年も経てば彼女の名残なんて微塵も遺ってはいないが、それでもここに来る度、僕は彼女を思い出して心が落ち着くのだった。勢い余って抱きしめてしまったときに、薬品に混じってほのかに香ったベルガモット。マダムには内緒で煎れてくれた、僕好みの甘ったるいミルクティー。白く細い首筋に何度も噛み付きたくなった。穢れを知らない瞳を恐怖で歪ませたくなった。ここにはいくつもの彼女がいて、同時にいくつもの僕がいる。忘れられるはずなかった。忘れるつもりもない。彼女が眠るようにして息を引き取ったベッドは、マダムの計らいでそのままにしてあった。真っ白なスーツに包まれすやすや眠る彼女も、ベッドの上で楽しそうに喋る彼女も、瞼を閉じればこの場所に浮かんでくる。ただ、温もりに触れられないだけで。


「アリア」


口に出すのを避けていた名前を、今一年振りに紡ぎ出す。時が隔てても色褪せない彼女への想いを実感して、思わず苦笑が漏れた。


「アリア」


愛してる、だって。僕の方がずっと深くずっと強く君を愛していたよ。どうして伝えることを躊躇ってしまったのだろう。手を伸ばせば届く距離にいたのに、僕は慢心していた。焦らずともいい、なんて考えたことが既に間違いだったんだ。君はもういない。君にこの想いを伝える術はない。


「アリア」


幸せになって、ね。彼女の声を忘れないように、何度も何度も繰り返したお願い。僕は生まれて初めて愛した人を守ることすらできなかった。そんな僕にまた誰かを愛する資格などあるのだろうか。今はただ、彼女の幻影に縋るしかできない。世界は廻り時は進むのに、僕だけがあの日で止まったままだ。僕は、変われない。


「ムーニー、やっぱりここだったか」
「ほら、朝飯行くぞ」
「デ、デザートがたくさんあるといいね…!」


突然、後ろから耳慣れた三人の声が聞こえてきた。振り向くと三者三様、ぎょっとした表情を作って慌てふためく。いつの間にか、頬を熱い液体が伝っていた。泣いたのなんかいつ以来だろう。ああ、やっぱり僕は生きているんだね。


「うん。今行くよ」


ローブの袖で目元を拭い、僕は三人に笑いかけた。ほっと安心した面持ちで大広間に出発する彼らをしっかり見据えた後、僕は彼女のいた場所を振り返る。僕たちは生きていく以上、過去は断ち切らなくちゃいけない。だけどそれは決して悲しいことじゃないんだ。君の声を、君の笑顔を、君の全てを抱いて、僕は歩いていく。別れなど未来永劫訪れやしない。


「アリア、愛してるよ」


だから、今は、さよなら。
どうか、どうか、幸せで。



にごった世界は美しく

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