自分だけのものに
「お疲れさまぁ」
心臓が跳ね上がり、体が震えた。
それはわたしがお風呂からあがり、机でかばんの整理をしながらふたくちめの烏龍茶を口にしたときのことだった。ふいに後ろからかかった声。……相手はわかっている。
「……堺さん……いたんですか」
「うん、結構前からかなぁ。先に帰ったはいいけど、あんまり遅いから心配になってさ」
ボサッとした髪をくしゃくしゃと手で遊びながら、堺さんがわたしの後ろに立って答える。あぐらをかいたまま振り向いてみると、薄手のジャケットに細いジーンズ姿の堺さんがニッコリ笑っていた。絨毯をザリザリと足の爪先でこすり、貼付けたような笑顔のまま、電話も出ないしねと言ってわたしを見つめている。
彼は、わたしの上司であり恋人だ。
ただ、ほんのすこしだけ。
「だから、ちょっと聞いてみたんだけど」
ほら、と彼がジーンズのポケットから取り出したのは、手の平サイズの黒い機械。アンテナが立ち、イヤホンのようなものがぐるぐるに巻かれている。堺さんが指で器用にいろんなスイッチを押し、ボリュームを上げるとノイズが聞こえてきた。
「あ〜いまはだめかな。じゃあこっち」
今度は携帯電話を取り出して、操作する。聞こえてきたのはすこしのノイズ、と。
『……ありがとう。きゃっ! あっいや、平気……』
わたしの声だ。
同時にそのときそばにいた同僚の謝る声も聞こえてくる。
――これは。
今日の昼間を思い出す。昼休み中、書類を片付けていたわたしに、向井くんがコーヒーを持ってきてくれたときのことだ。
彼がすこし、わたしの服へとこぼしてしまった。慌てたわたしの声がただ流れ続けている。
「こぼされたのはコーヒーかなぁ? さっき洗濯機の前に浸け置きしてあったもんね。でもだめだよ、これ。誰かに拭いてもらってるよね」
携帯に耳を押し当て、見下すような笑い顔をして言う。
「……ん〜、ああこれ、向井くん? 彼かぁ」
チッと舌打ちをして、舌で咥内をぐるぐると舐め、頬を膨らませる。考えるように顎に手を置いて、ふうん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「触られたんだ」
「……まぁ」
「へーえ、どこを? どういうふうに?」
言えるわけないよねとわたしの顎を撫でる。
「だめだなぁ喪子は。俺の言い付けのひとつすら守れないの」
前髪を掴まれ、ギリギリと引っ張られると痛みで顔が歪む。堺さんは息が触れるくらい顔を近づけると貼付けたような笑みで囁いた。
「向井くんにも忠告してあげなきゃ。こんなふしだらな女にうつつを抜かしてちゃだめだって」
***
「あー……可哀相だねえ、喪子」
背後から息を乱した堺さんの声が聞こえる。
一定のリズムで押し寄せてくる快感と屈辱の波がわたしの理性を壊していく。中途半端に脱がされた服と、下着が足首に引っ掛かったままのわたし。上半身だけ服を脱いだ堺さん。無理矢理してるみたいでなんだか申し訳ないねと言う堺さんは笑顔で、楽しんでいるのは確かだ。うそつき。
「こんなふうにされて、感じるの」
「やだ、いやです」
「……ごめん、聞こえないんだけど」
喉を締め付けるような笑い方。
拒絶の言葉ばかりが口から出てくるのに、イライラと快感で、正反対の感情が込み上げる。もうどうでもいい。このままはやく、もっと気持ち良くなりたい。
「……ね、向井くんにもおすそ分けしてあげようか」
「えっ……」
耳元に唇を寄せ、囁かれた言葉に思考が停止した。ムカイくんに、なに? ジリジリと理性が戻ってくる。それって、どういうこと。焦るわたしをよそに、堺さんは体を起こした。うごきが止まった瞬間、嫌な電子音がわたしの耳に響いた。呼び出し音。嘘でしょ。
「…………あー、向井くん? うん、お疲れさま」
「ちょっと……あ、ああっ」
わたしが声をあげた瞬間、体からそれが引き抜かれ、また深く奥までゆっくりと突かれた。顔は見えないが、きっと勝ち誇ったような表情だろう。気持ち良い。体が崩れ落ちる。
「うん? なにもないよ。あのさ、今日のプレゼンあったじゃない」
どうしよう。だめだ、声が出てしまう。
だんだんと激しさを増していく堺さんのうごきに耐え切れず、シーツに顔を埋めるけれど、声がもれる。だめ、だめだ、もう。びくびくと太ももが震えた。
「わかった、じゃあお願い。うん、はい、また明日……」
「堺さんっもう、わたし」
「……よく我慢してたねえ、えらいなぁ」
背中にぬくもりが戻り、胸を両手で揉まれる。神経質そうであたたかみのある堺さんの手は、見えずともわたしの快感を誘うから、心地良さに涙があふれでる。
もっと。なかなかうごいてくれないもどかしさに腰がうねる。
それを見て、鼻で笑う堺さんに劣情を覚えてしまうわたしはどうかしてしまったのかもしれない。
「堺さんっ……んんっあ」
だらしなく口を開けて名前を呼んだ瞬間に、果てた。ぎゅっと締め付けると腰を手で掴まれて激しく突かれる。肌に触れるジーンズの擦れる音と自分の体液の音が重なって、なにかもわからなくなってしまいそうだ。荒れる息。汗が落ちてくる。
「……今日はがんばったから、いっぱいにしてあげようか」
熱い吐息が首筋にかかった瞬間に放たれた生ぬるい液体の感覚と、それが体内に満たされる充実感に、わたしは目をつぶって微笑んだ。
――結局このひとには勝てないんだ。独占されることをわたしも望んでしまっているのだから。
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