悋気暴走




「三日は消えないね」

先生がそう言って撫でたのは首筋のキスマーク。
車のなかではわたしたちの息遣いしか聞こえない。顔がさらに紅潮した。なんでそんなこと言うんだろう。先生はわたしの耳に触れ、撫でる。ふと西島先生の手つきを思い出した。同じ触りかたをしてる気がしたから。見ると、先生は苦笑していた。

「これで諦めてくれればいいけど」
「え?」

ぼうっとしていて、聞こえなかった。
先生はなんでもないと眉を寄せて笑顔を作った。すこし気になったけれどわたしはそうですかと納得したように頷いて答えた。
先生、わたし、そろそろ時間が。そう言うと先生は慌ててわたしから離れる。

「ごめんね、今度はちゃんと送ります」
「いえ……」

車がゆるやかにうごきだす。
家が近づいてくるのが寂しい、もうすこしだけそばにいたい。そんなふうに感じて先生の横顔を見ると、先生がこちらを向いた。

「明日の補習、僕も付き合うから」

一応教師だしさ、と先生はまた笑った。


***


「おい、喪山」

朝のホームルームを終えて、体育の準備をしようと更衣室へ向かう途中、西島先生から声をかけられた。
今日の西島先生はめずらしく、黒いジャージ姿で出席簿を片手にこちらに歩いてきた。細身のジャージは西島先生の体付きがよくわかる。クラスの女子がニッシー、スタイルめっちゃいい! と、今朝から騒いでいた。

「なんですか?」
「お前、めずらしいな」

ニヤついた西島先生に、それは先生のほうでしょ、とわたしが返そうとしたとき。

「第一ボタンまで、ちゃんと留めてる」
「えっ」

ドキッとした。
首筋につけられたキスマークを隠すために、今日はいつもは外している第一ボタンまでしっかりボタンを留めていた。
ばれた? いや、そんなことないよね。わたしは平然を装って先生に返した。

「西島先生こそ、今日はめずらしいじゃないですか、ジャージ」
「体育手伝うからな」
「……できるんですか?」
「お前、人をバカにしてるだろ」

西島先生の冷たい眼差しに、すみませんと謝ると、別にいいという言葉とともに出席簿が頭に降ってきた。
痛い。大人気ない。

「じゃあ、わたし着替えてくるんで」
「おう。……あ」
「はい?」
「昨日、ちゃんと帰れたか」
「……はい」

ならよかった、と先生が笑った。
気のせいかもしれないけれど、わたしは胸が疼いて、すこし痛かった。


***


放課後、わたしは職員室前にいた。
ホームルームが終わり、西島先生と職員室までプリントを取りに来たのはいいものの、西島先生は職員室内で他の生徒に囲まれてしまい、わたしは立ち尽くしていた。
暇だなぁ、そういえば堺先生、一緒に補習うけるとか言ってたのに、今日はまだ姿を見てない。どうしたのかな。


「ねえニッシー、今日めずらしい! ジャージじゃん格好良い〜」
「ニッシーじゃない。西島先生って呼べよ。ほら、どいて」

西島先生がプリントの束を持って戻ってきた。
西島先生に聞いてみようかな。

「待たせた。行こう」
「はい。……あの、先生、今日は堺先生、見ませんでした?」

西島先生がこちらを向く。
無表情。いわゆるいつもの顔。口をへの字にしたあの感じ。先生はわたしのほうを向いたまま無言でスタスタと歩いて行く。なんかまずいこと言った? かな。

「西島せんせ」
「堺先生は出張。学年主任命令」
「えっ……学年主任って西島先生じゃないですか。堺先生はどこに」
「守秘義務」
「意味がわからないです」

先生の歩く速度がぐんぐんと上がる。
数学準備室の前に着く。今日は教室じゃないんですか? わたしの質問に答える気がないのか、先生は無視をして準備室のカギを開けた。おかしい。朝は普通に話をしてくれていたのに体育が終わってからの先生、なにかおかしい。入れ、と先生がドアを開けた。一歩、足を踏み入れる。キレイに整頓された机、資料。堺先生だって、汚くしているわけじゃないし、物が多いだけで几帳面なのだけれど、やっぱりなにか違う。そんなことを考えた瞬間、後ろでガチャっとなにか音がした。カギの音。え、なんで閉めるの? 振り返ると後ろ手にカギを閉める西島先生の姿。

「せんせ」
「人が来て勉強が止まったら困る」
「……あの」
「堺先生は、来ない」
「西島先生?」
「昨日は、ちゃんと、帰れたか?」
「えっ?」

『昨日はちゃんと帰れたか』もう一度先生が言う。
朝、先生がわたしに言った言葉。なんでまた? はい、と答える。先生が笑った。一歩、二歩と先生が近づいてくる。威圧感。先生の手がわたしの首にのびる。ハッとして避ける、が、すごい勢いで首を掴まれた。痛い。もう先生の顔は笑っていなかった。いつもの顔じゃない。怖い。同じ無表情なのに、違う。てのひらは首から顎に移動して、もう片方の手で、ブラウスのボタンが外されていく。なに、なんなんですか。先生やだ、やめて。

「先生っ」
「これ、なに」

見つかった。
見つかってしまった。どうして? なんで気づいたんだろう。先生はまたわたしに尋ねる。

「昨日は、ちゃんと、帰れたか?」

低い、人を威圧する声。
抑揚のない淡々とした声色。怖い。怖い、なんなの。いやだ。こんなの西島先生じゃない。帰れました。答えた瞬間、わたしは机の上に押し倒された。

「いっ……た、せんせ、なに」
「嘘つくなよ、なんだこれキスマークだよな、おかしいだろ」

先生がわたしの肩を両手で押さえ付ける。
痛い、怖い、体が震えて自由がきかない。

「体育のとき、ジャージから見えてた」

油断してた。ジッパーが下がってたのかもしれない。わたしは自分の失敗に、ひどく後悔した。

「堺か」
「え……」
「堺先生にやられたのか」

答えないわたしを見て、西島先生は舌打ちをした。
だから気をつけろって言ったのに。西島先生が悲しそうな顔でそうつぶやいた。どうしてそんな顔をするんですか、先生。
先生の片手が、昨日の放課後みたいにわたしの耳と髪を撫でる。わたしは顔を背けた。
……いやだ。堺先生じゃないと、いや。
だめだった。昨日の西島先生の感触は、わたしにカケラも残ってなかった。撫でられて思い出すのは、堺先生のことだけ。

「せんせ、やめて、ください」
「堺先生と付き合ってるのか」
「…………」
「なぁ」
「やっ、いや、先生! やだぁっ!」

ぬるっとした生温い舌がわたしの首筋に当たった。
血管をなぞるかのように、西島先生の舌が這う。先生の舌はキスマークのある場所まで向かうと、そのうえからちゅっと吸い付いた。きつく、きつく。昨日の堺先生よりきつく。痛い。先生の片手はわたしのスカートのなかにするっと入った。太ももをまさぐる。かたい指先の一本一本がわたしの太ももに食い込む。

「やだ、やだ先生」
「なんで。俺はだめなの。堺先生はいいのに?」
「違っ、違います、んっ……」

西島先生のくちびるが、押さえ込むようにわたしのくちびるを奪った。
角度を変えて、何度も、何度も。ミントの匂いがした。堺先生とは全く違う。口のまわりがベタベタに汚れていく。わたしは必死にくちびるを閉じた。涙がにじむ。先生の舌がなぞり、こじ開けようとする。くちびると顎がどんどん汚れていく。それを舐めとる西島先生と、堺先生が、ぼやけてだぶった。
先生の手が下着に触れた。冷たい手が指先が、わたしのクロッチ部分をツッと滑る。往復するたびに、いやなのに声が出る。

「ふぁ、やだ、いやです、んん……」
「……なんで、なんでだよ。喪子」

先生がわたしの名前を呼んだ。呼び続ける。ひたすらに。だめだ、これ以上は。やだ、絶対に。わたしだって、西島先生は好きだ。だけど、これはどうしても、違うよ。絶対違う。

「やだぁ……助けて、堺先生っ」


涙がこぼれた。
その瞬間、西島先生のうごきが止まる。わたしが西島先生を見上げると、先生はわたしから目をそらした。

「せんせい」

……嘘だ。先生がわたしから離れる。服をサッと整えてくれた。どうして、先生。どうして。

「忘れて。どうかしてたんだよ、どうかしてた。ごめん、本当に」

頭を抱え込んで、わたしと距離をとる。
西島先生の頬は濡れていた。
なんで、先生は泣いてるの。


***


「情けねえなぁ」

情けない、本当に。なにをしてるんだ。相手は生徒で、しかも、堺を好きだと言うのに。情けないとしか言いようがない。俺は一人数学準備室で座り込んだ。涙が出てくる。なに勃ってんだよ、俺。頭おかしいのかも。バカだ。

取り返しのつかないことをした。
わざと、朝から堺先生に自分の出張を無理矢理押し付けた。近隣の小学校をすこし回るだけだ、もう帰って来ているだろう。きっと、さっき返した喪山と会っているはず。喪山は俺のことを言うかな。いや、言わない。けど堺先生はきっと気づく。俺、殺されるな。自嘲気味に笑う自分にさらに笑いが込み上げた。

「どうするかなぁ」

ただ好きだっただけなのに。
それを越えた俺がいけなかったのか。

「転勤の話、受けるか」

逃げるしか脳のない弱虫は、俺だ。
静かな部屋に一人、ザアザアと外から雨音が聞こえてきた。それが笑い声に聞こえて。俺を嘲笑するような。くそ。ふざけるな。だめだ。

「……喪山、ちゃんと帰れたかな」






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