吐き出す




「ただいま」

ガランとした室内。部屋も暗い。
結局帰ったのはいつもよりすこし遅い時間。頭がぼーっとする。泣いたせいだろう。歩いて帰っている途中もフラフラとして危なかった気がする。
電気をつけたら、台所の炊飯器のスイッチをいれ、すぐにお風呂場へと向かう。お湯も溜めなきゃ。蛇口をひねり、温度を確認してから部屋に戻る。携帯を取り出すとお母さんからメールが来ていた。『ご飯ちゃんと食べた?』意外と心配してくれてるの、かな?

「いまからだから、大丈夫だよ……っと」

カコカコと早打ちして返す。
携帯を閉じると、一気に疲れが込み上げてきて、座りこんでしまった。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。胸にポカンと空いたような気持ち。大切なことを知った。言葉にできないけれど、それはとても大切なこと。仰ぐと天井が見えた。天井しか、見えない。目を閉じる。もう気持ちは決まった。ちゃんと言わなくちゃ。

――コンコン

玄関先を見遣り、耳をすます。もう一度聞こえたノックの音。誰か来たんだ。バタバタと慌てて玄関へと向かう。お母さんの知り合いかな? わたしの友達ってことはないよね、学校終わったばかりだし、用事ならメールでもいいんだから。
疑問に思いながらノブを掴み、わたしはドアを開けた。

「どちらさま……」
「不用心だよ」
「えっ、ちょっ」

ギュッと、いきなり抱き着かれる。
甘いにおいに、いつもの細くやわらかい体。この人、は。抱かれるままに顔をうごかし、確認する。

「さ、かい先生……?」
「……ちゃんと確かめてから開けなきゃだめじゃないか」
「すみません……あの……」

言葉が出てこない。なんで? 堺先生がここに?
堺先生はわたしから体を離すとわたしの髪や頬をするりと撫でて、深くため息をついた。手が、ひどく冷たい。

「とにかく入ってください」

どうしたんですかと問いつつ、先生を部屋に上げる。慌ててしまい、靴を脱ぐのにすら手間取る先生のようすに、すこし心配になった。
玄関を抜けたときだ。
西島先生が、と、先生がつぶやいた。

「教えてくれて」
「西島先生が?」
「……くやしいけど、勝てないなぁ」

先生が立ち止まり、部屋にポツンと、二人で立ち尽くす。
それは、どういうことですか? わけがわからずにわたしが言うと、先生は困ったように俯いて答えた。

「だめなんだ」
「……先生?」
「君は、いつも僕をやさしいって言うよね」
「はい」
「本当は、僕はやさしくない」

なにを、と言うわたしを制止するかのように、先生が首を横に振る。なんでそんなことを言うんですか。

「本当はすごく卑怯者で、ぐちゃぐちゃになるくらい嫉妬する。全然、良い先生でも、良い大人でもない。ひどいことだってする、君を奪われないように」

堰を切ったようにあふれでる先生の言葉。
その姿が苦しそうで、わたしはただ見守るしかない。

「……でもやっぱり、やっぱりこんなのじゃだめなんじゃないかって……俺より、君をずっと見てきた彼ならって、だけど」

「だけど、君が他の人を好きになるなんて考えたくない、俺のそばにいてほしいから……」

先生の手がわたしの手を握りしめる。

「……わたしだって、だめです」

弱くて、人に甘えてばかりで、全然だめなんです。わたしのほうが、先生に見合うような人間じゃあ全然なくって。だけど、それでも先生が、先生のことが好きで。

「嘘ついて、人を傷つけて、だめなんです、わたし」

握り返す手に力が入った。
口の中が、緊張で乾燥してしまう。だけど。
先生とわたしの手をじっと見て、言葉を続ける。

「……昨日の香水、本当は、西島先生に貰ったんです」

言った。ふいに出た昨日の嘘。
嘘ついてしまったんです、ごめんなさい。
先生は一瞬黙ってから、口を開いて眉を下げた。

「うん……知ってるよ」
「えっ」

見たらわかるよと言われ、慌てる。
そっか、わかってたんだ。昨日の堺先生の気持ちを考えて、申し訳なくなる。ごめんなさい。そう謝ると、先生は、いいんだ、俺こそごめんと小さく返した。断れなかったんでしょう。先生がそう言って、わたしの手を掴み直し、ぐっと体ごと引き寄せた。

「好きです、喪山さんのことが。……そうやって反省する姿も、笑う姿も、失敗するところだって、全部含めて」

……その言葉、そのまま先生に返しますよ。
先生の腕におさまって、先生のあたたかを感じて、安心する。ああ、もう。今日は泣いてばっかりだ。泣きたくなんかないのに。
 いつまでもこんな時間が続けばいい。いつまで経っても時計の針がうごかなければいい。そう考えて、きっと先生だってそう思っていると思った。勘違いじゃない。
だっていまこのとき、わたしを抱くこの手の力が強いのも、囁かれる愛の言葉も、先生がそう思ってる証だから。






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