懺悔の心




『今日はまっすぐ帰りなさい』

六時限目にあった国語の授業のあと、堺先生にそう言われた。
いつもならまたあとでと笑う先生の意外な言葉をすこしさびしく感じつつ、先生も仕事があるんだから仕方がないと納得する。今日からしばらく一人だし、ご飯の用意だってすべてやっておかなくちゃいけない。はやく帰ろう。
――でも、その前に。
ホームルームも終わり、下校のチャイムが鳴る中、スクールカバンに教科書を詰め込んで教室を出る。長い廊下。この先を進めば堺先生にまた会えるのに、と考えて、やめた。なんだかわたしは、最近すごく贅沢になっている。
いろいろと、甘えすぎなのかもしれない。……昨日のことだって。
 夜中、ずうっと考えていたことだ。廊下の真ん中で立ち止まる。わたしは、堺先生のことが好き。それは揺るがない。そのくせに、西島先生の気持ちを不安定にさせている。最悪だ。西島先生の笑い顔が浮かぶ。わたし、西島先生から笑顔を奪ってるんだ。
――カバンの奥にしまった香水。
昨日付けたきり。もうわたしから、香りは一切しない。……返そう。だめだよ、これじゃあ。カバンの持つ手に力が入る。まだ西島先生は教室だ。
くるりと振り返った、そのときだった。

「っわ!」
「……なにしてんの」
「に、西島せんせ……」
「危ないから、ちゃんと周りを見て――」
「あのっ」

思ったより大きな声が出て、慌てて言い直す。

「あの……話が、あるんですけど」

わたしの言葉にしばらく黙ったあと、先生は憚るように、ちいさな声で答えた。

「……ここじゃあ、だめだよな」

頷くと、先生はしかめっつらでなにかを考えるように頭をかく。いつもと変わらない仕草。

「じゃあ、そこ、空いてるから」


***


先生の後ろについて会議室に入ると、室内には夕日が射して、橙色に染まっていた。先生が椅子を引いて座る。はやく座れと言う先生。座らないまま先生の目の前に立つとくちびるがしびれたみたいにうごかない。言わなくちゃ。言わなくっちゃいけないんだ。

「……喪山?」

カバンから香水を取り出し、差し出す。
手が震えた。自分の足元しか見れない。気持ちが悪い。グラグラする。だめだ。ぐっと前を見る、先生の目を。逆光でよく見えないけれど、俯いた先生の顔が陰ったのがわかった。

「ごめんなさい。これは、やっぱり受け取れません」
「……そうか」
「先生のことを嫌いだとか、そういうのじゃないんです。でも、先生からこれを受け取るのは」
「わかってるよ」

食い入るように返される。
先生は先生だ。いつだって平等だ。そうでなくちゃいけない。その一線を越えるほどの気持ちを向けてくれた。わたしはそれに、わたしとして答えなくちゃ。
お前はきっと同情して、結局後々に悩むようなやつだ。先生がそう笑った。なにも言い返せないし、言い返す必要は、ない。全くもって先生の言うとおりで。でも、でもそれじゃいけないって、思ったんです。

「それに甘えてたんだ。お前は絶対後悔するってわかってたのに」

わかってたんだよ。先生が笑った。

「……アイツにだけは勝てない。ムカつくけど、敵わないんだよな」

先生が目を伏せる。長い睫毛。

「たまに卑怯だし……って、俺は人のこと言えないか」

光る、先生の睫毛の先。わたしはそれを、目に焼き付ける。
……目頭が熱い。意味がわからない。わたしがこんな気持ちになるなんて。わたしがこんなふうになるまで傷つけた、その人を思って、涙が出てくるなんて。勝手だ。ひどい。わたしは最悪だ、最低だ。こんなもの同情じゃないか。わたしが、わたしが傷つけたくせに。くちびるを強く噛む。痛い。でもこんなもんじゃない。先生の心の痛みはわからない。でも違う、もっと、もっと痛かったんだ。もっと……。

「喪山、そんな顔しないで、頼むから」
「すみません、違うんです……すみませんっ」

お前は悪くない。もう、なにも言わないでくれ。
先生が自分の顔を両手で覆う。先生だって……先生だって、泣いてるじゃないですか。
 はじめて理性を飛ばす大人を見た。はじめて自分を殴りたくなるくらい人を傷つけた。はじめて自分が子供であることを強く思い知った。はじめて、身近な大人が嗚咽するのを、見た。そんなに優しい言葉を、わたしにかけないでください。

――教室がふと暗くなったのは、夕日が雲に隠れたからで。
もうすぐ夜が来てしまう。今日は星が瞬かない気がして、涙がまたあふれる。目に映るなにもかもがひどく哀しく、侘しい気持ちにさせた。会いたい。






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