そして私は遊ばれる
私は少し急いでいた。
何せ、ちょっとした忘れ物を武道場にしてしまった事を思い出したのだ。
急げ急げ、早くしないと無くならないともわからないぞ、私。
そうやって走っていると、私にとっての魔の地点が訪れていたのだけど、私は気付かない。
「ていっ」
「うっ」
楽しそうな笑い声が聞こえた。
人を転ばせて楽しむこの先輩はどうかしてる。
というか白零の先輩達は皆どうかしてる。
顔を上げて、声のする方を涙目になりつつ睨んだら、其処に居たのは、七海先輩がいつも「ガキ」と言っている人―――童子先輩。
確か、七海先輩の幼馴染だったっけ。
よく覚えていないけれど、そんな所だったと思う。
「もう何回目? そろそろ記録付けてあげよっか?」
「止めてくださいー」
部員観察日記を書き始めて、今日で確か四日目になる。
……思い返せば、この人の事は書いてない。書きたくない。
人が転んだ回数をいちいち記録してやろうかとまで言い出す人だ。
全く、人の弱みと言うか、人のいじれる所を発見するのがこうも上手いと、どうしたらいいのか私が困る。
因みに、この人に廊下で転ばされた回数は十数回になる。
……それに反応できない私も私かもしれない。
七海先輩にリークしてやろうかな。
どうにも意味なさそうだけど。うーん……。
「なんでいっつも転ぶの? 同じ手に毎回引っ掛かってるよね」
「突然足出すからでしょう……」
「しかも同じ場所で」
「はうっ!」
にやにやと笑っている先輩は本当に人をからかうのが好きらしい。
そうですよ、いつも同じ場所で同じ方法で同じ要領で転んでますよ……。
一通り遊び終わったらしい童子先輩は、ルービックキューブ片手に鎧坂先輩と何処かへと歩いて行った。
戻ってこなければいいのに。
そしたらまだ恥なんか晒さずに……じゃない、遊ばれないで済むのに、と思ってしまうのだ。
「あ、そうだ」
「……むぅ」
また何か言われるのかと思い、しかめっ面になりかけた所で、
「差し入れのはちみつレモン、結構美味かったよ」
「あ……どうも」
「あはは。ね、また今度作ってくんない?」
楽しそうに笑いながら、彼は私に言った。
「! はい」
珍しく毒を吐かれなかった事に感激してしまう。
この人でも人をからかわない時ってあるのか、と。
誰かに作った物を美味しいと言ってもらえる事は思っていたよりも感激モノで、なんだか嬉しかった。
本当、そう言ってもらえると作りがいがあるというものだ。
遊ばれてしまう事は少し癪だけど、なんだかそれでもいいかな。
人間―――何を言うかなんて、案外予想できないものだ。
童子先輩が、珍しく人の事を茶化す台詞を言わなかったように。