舞われまわれ | ナノ







「ただの打ち身、安心して大丈夫よ」

ナランチャの処置を終えたマキナが、仮眠用の部屋から出てきた。
「そうですか。良かった…ありがとうございます」
本当に良かった。
僕は、深いため息をついた。

彼が動かなくなったとき、僕は最悪の想定をしてしまった。
別にありえない話じゃないんだ。
人間はとても脆いのだから。
そう、それが分かっていながら僕はまた、彼を傷つけた。
もし彼の身に何かあったら…。

「時々思うんです。僕のスタンドの毒は、僕のこういった衝動の現れ何じゃないかって」
口にした後で、人にする話じゃなかったと気付いた。

「…殺人ウイルスが?殺人衝動でもあるの?」
しかし、マキナの耳にはしっかりと届いていたようだ。

しまったという後悔の反面、聞き流されなかったことを喜ぶ自分がいた。
なんて、僕は身勝手なんだろう。

「…わかりません、無いとも言い切れない。だって事実、抑えられないんですから」

言うべきじゃ無いのに、とまらなかった。
こんなこと、話されたって相手は困るだけなのに。

「人を傷つけた後に罪悪感の欠片もないんです。ただ、ああ自分はそういうことをしたんだなって言う事実確認しか僕の頭はしなかった」

僕はある教師をぼこぼこに殴り飛ばしたのを思い出した。
あの時、痙攣して泡を吹く相手をみても何も感じなかった。

「実際、こちら側にくることになった原因…ある程度の地位のある人を少し、いやかなり殴ってしまったんですけど、そのときも僕はこれっぽっちも自分が悪いなんて思いませんでした」
ただ、眼の前で人が倒れていた、それをやったのは僕だという事実を認識しただけだ。

「そのとき普通の世界じゃきっと生きていけないんだって確信したんです」
「だからパッショーネへ?」
「ええ」
マキナは無表情だった。
ああ、やはりこんな話するべきじゃなかった。
今更過ぎる後悔を僕はした。
軽蔑されただろう。
嫌悪感を抱かれただろう。
僕はこんなにも異常な人間なのだから。
彼女の顔を見ていると堪らない気持ちになり、視線の行先はもう自分の足元以外なかった。
告げるだけ告げて、結局拒否されるのが怖いのだ。
想定できるだけのあらゆる彼女の視線から逃げたかった。
でも唇は動きを止めなかった。

「だから、いつかその毒が爆発して…取り返しが付かないほどあなたやナランチャ、ブチャラティを傷つけてしまうかもしれない」
それが、怖い。
だから思う。
僕は、優しくされていい人間じゃない。
みんなが思ってるよりももっと、汚い人間で。
ひとたび今の環境がとても身分不相応に感じ始めると、もうそれが止まらない。
「だったら、仲良くしないほうが傷つかずにすむんじゃないかって」

こんな底辺の底辺を行くような人間にはもっと相応の場所があるんじゃないだろうか。
下水溝の中のような、そんな暗がりこそが自分の居場所のような気がしてきて。

もしかしたら、あの日ナランチャを拾ったのだって。
そうかもしれない。
『そちら』にいるべき僕は『こちら』にいるのに彼は『そちら』にいて、僕は『こちら』から彼を見ていた。
その矛盾が苦しかったのかもしれない。
そんなところにいたナランチャを引きずり上げたかったのだ。

いつか自分はあちら側になるのだろうか。
忌避したいと思うその状況が、なぜかどこか安寧の場所の様にすら思えてくる。
そう、その暗がりは僕にとってひどく『しっくり』くるのである。
自分でもどうかしていると思う。

「こんなイカレた奴はもっと汚い場所の方が」
「ストップ」
歯止めの利かなくなった僕の思考と言葉は、淡々としたマキナの一言で遮られた。
ああ、この先に待っている言葉はいくらでも想像がつく。
いずれにせよ、良いものであるはずがないのだ。
「二つほど、言いたいことがあるわ」
「…」

耳をふさぐ権利は僕にはなかった。
ただ俯いて、彼女の言葉を待った。
気分はさながら、処刑台で床が抜ける瞬間を待つ死刑囚である。
その首には確かに縄の感触があり、刻一刻と断罪の時間を待つのである。

「ひとつ」

床が、抜ける。

「あなたは自分で思っているほど異常じゃない」
「…え」

耳を疑った。

「ふたつ、あなたはそれだけの人間じゃない」

恐る恐る顔を上げる。
そこには僕の想像した冷たい光景はなく。
「でしょ?」
マキナは、いつものように笑ってくれていた。

床はあくまで床であり続けていた。


(そもそも首に縄なんてなかったんだ。)