舞われまわれ | ナノ
「マキナってさ」 ナランチャが昼食後のドルチェを食べたフォークをこちらに向けていった。 「苗字はないの?」 「…無いわね」 それと人にフォークを向けるんじゃない、と彼からフォークを取り上げた。
「またまた!実はあるんだろ?」 「確かに、無い人間はそうそういないんでしょうけど。そうね、あったはずだわ」 「なんでそう曖昧なんだよー」 年も苗字もわからないなんて迷子かよ、なんて笑われてしまった。 そうかもしれない。 私はずっと迷子なのかもしれない。
「うん、忘れちゃったから」 そもそもこの名前だって、本当の名前ではないのだろう。 それに至るまでの話は、今でもあまり気持ちのいいものではない。 自然と声は暗くなった。 「…えっと」 私の様子を察してか、ナランチャは気まずそうに言葉を濁した。
「ところで、どうして急にそんな話になったの」 心遣いは嬉しいが、彼を困らせるのは此方の本望ではない。 少し話をそらしてみた。
するとナランチャは新しいおもちゃを貰った犬のように目を輝かせて此方に詰め寄ってきた。 「そうそう!それがよぉ、フーゴは苗字がフーゴだったんだよ!!」 「え、そうなの?」
自己紹介のとき彼は決まって簡潔に『フーゴ』とだけ名乗っていた。 私も『マキナ』としか名乗っていなかったので、てっきり名前かと思っていた。 ナランチャはとても大事な宝物を人に見せるときのように、少し声を潜めて悪戯な笑みを浮かべた。
「あいつの名前な、聞いて驚くなよ!これがさぁ、パンぶっ…!!!!」 バンッ!と力強く開け放たれたドアからナランチャの後頭部をめがけて分厚いハードカバーの本が叩き込まれた。 その軌道は一直線。 確かな重量を感じさせるその本からは想像もつかないほどの速さ。 実際にナランチャにぶつかったところを見なければ、その軌道、速度は矢と錯覚してしまいそうなものだ。 まさか、敵襲ッ!?
固唾を呑んで放たれた扉の先に視線を向ければ、そこにはフーゴが肩で息をしながら立っていた。
「フーゴ…?」 「…あ、ああ!ナランチャ、すみません!!!」 我に返って慌ててナランチャへと駆け寄るフーゴ。 ナランチャは気絶してしまったようだった。 私は凶器になった本を取り上げた。 想像のとおりかなりの重量のあるその本は、遺伝子工学の論文集のようだった。
「で、今回の原因は何?」 「…それは…その」 珍しく、フーゴは言いよどんだ。 ブチ切れてもすぐに冷静さを取り戻し己の非を認める彼にしては珍しいことだ。
「まぁいいけど。アンタが良心の呵責で死なないか心配だわ」 「マキナは僕を買いかぶりすぎですよ」 「そう?」
フーゴは曖昧な笑みを浮かべていた。 「そうですよ」 「…そう」 とりあえず、ナランチャを床よりもマシな場所に移そうかしらね。
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