俺様が此処へ落ちてきてからもう幾日過ぎたのだろう。締め切られた部屋は暖かいがベランダへ出れば半袖じゃあだいぶ寒く、手を温める様に息を吐けばうっすらと白かった。空を仰げば星は西へ西へと追いやられて東の雲はうっすらと金色に色づいている。
「…ん、ご飯つくんなきゃ」
今日も一日この不思議な生活が始まる。
逆をいえば、今日で俺のこの不思議な生活はお終い。
異変に気付いたのは昨日の夜、シャワーを浴びている最中。ぞわりと背中を駆け抜けた妙な感覚と足元がじわじわとした感触
に襲われて、ついに帰る時が来たんだと理解した。
その日は靴下を履いて朝起きて見れば予想通り爪先から足首は既に淵を残して透明になっていた。だがまだ完全に消えるまでには時間があるらしく、いつも通り家事をこなす。
「はぁー終わった終わった、ちょっと急ぎ過ぎたかな」
休憩、とベッドの淵に越しかければ揺れたスプリングに部屋の主は軽く身じろいだがまだまだ起きる気配はない。
ある日突然落ちて来た自分を、拾ってくれた人。
もしあの時、仁さんの元に落ちてなかったら、もしかしたら自分はこの世界で果てていたんじゃないかと思う。
忍の世界で生きてきた俺にとって、暖かすぎる人。この人と過ごしたのはたったの一月だったけれど、俺様を変えてしまうには充分すぎた。仁さんとお揃いのピアスに触れれば胸がぎゅうっと音を立てて俺を苦しめる。
「仁さん、俺様帰っちゃうよ?」
くしゃりと布団からはみ出た頭を撫でればくすくすと仁さんは笑う。なんの夢みてるのかな。
「…おい猿、貴様足が…」
「ん?あー大丈夫、これ進行形で向こうに帰ってるだけだから」
気付けば日光浴を終えた毛利の旦那が驚いた様に俺様の足に目を向ける。何時の間にやらとっくに膝から下は無くなっていたが、問題ないと告げれば旦那は怪訝な顔をした後リビングへと消える。
「仁さん、朝ごはんはお味噌汁コンロにあるからね。お昼は昨日の残り、夜は頑張って作ってね」
「洗濯物溜め込んじゃダメだよ?俺様が居なくなったからってお菓子ばっか食べない事、」
「それから、それから、」
「お願いだから、仁さんはあっちの世界に来ちゃダメだよ」
透明になった指先にもはや感覚は無い。それでも撫でるのをやめずに語りかければうっすらと仁さんの目が開いた。
「さっちゃん…?」
「あ、おはよ仁さん、」
殆ど閉じられた瞼の下でころころと目が動いているあたり、まだまだ頭は夢の世界に居るんだろう。まだ寝てていいよ、と淵すら消えた手で撫でる真似事をすれば短い返事と規則正しい吐息が聞こえた。
そろそろ時間もないみたいだ。じわりじわりと視界が狭まって行くが微かに視界がぶれているのは何故だろう。…水っぽいお別れは嫌なのにな。
「…ねぇ仁さん、もしかしたら俺様、仁さんの事ー…」
呟いた言葉は、貴方に聞かれなかったかな。