僕は一縷の希望にすがって、部屋の隅々まで彼女を探し回る。
だが彼女は見つからない。
僕の家は小さく、ひとたびそこから失せたものは二度と取り戻せない。
しかし主よ、あなたの館は無限だ。
僕は彼女を探して、あなたの戸口まで来てしまった。
僕はあなたの夕空の天蓋の下に立って、熱い眼であなたの顔を仰ぎ見る。
僕は永遠の縁までやってきたのだ。ここからは何も消えることはない。
希望も、幸福も、涙を透かしてみる顔の幻も、ここからは消えない。
おお、僕の虚ろな生命をあの大海に浸し、深く満ちた底へと沈めてください。
そして今一度、あの失われた甘い感触を、全一なる宇宙のなかで味わわせてください。

タゴール『ギーターンジャリ』八七節

















「何これ」

ん、と渡されたそれは私には馴染みのないものだった。
特に大きな事件もなく日勤を終え、宿舎に帰ろうと席を立とうとしたとき、慎也さんが私に本を突き出したのだ。
意味がわからない。黙って差し出された本を眺める。表紙には『星の王子さま』と書かれている。

「読め」
「は」
「帰っても暇だろ」

この男は私の何を知っているというのだろう。まあ、たしかに暇だ。帰ったらシャワーを浴びて眠るだけ。そうだけども。
仕方なく本を受け取る。読む気など全くわかないし、読みたくない。読書など、したいと思ったこともない。

「嫌だったら読まなくてもいい。それやる。返さなくていいから」
「…」
「じゃあ、お疲れ」

何なのだ、一体。慎也さんは何事もなかったかのようにジャケットを羽織ると、そのままオフィスから出ていってしまった。彼も帰るのだ。
見ていた佐々山さんと内藤さんがにやにやしながら私に近寄ってくる。

「えー?なになに、狡噛からプレゼントか?」
「本かー…やっぱりインテリが送るものは違いますねぇ…ん?」

私の両わきから手元の本を覗き込む二人。

「どうした、内藤」
「この本って…えーと…規制かかって図書館にしか置かれなくなった本じゃないですか?電子データベースに内容だけ保管されてるはずですよ」
「詳しいなお前。何でそんなもん狡噛が持ってんだよ」
「いや知らないですけど」

え、と私は思わず手元の本を眺めた。紙の本なんて化石みたいなものだ。手に取るのも初めてだった。さほど分厚くはない文庫本だ。

「なんかお前らさ、ほんとに仲良くね?最近特にさー!そんなプレミアもん貰うとかお前何なの付き合ってんの?」
「ないです」
「えー、だって毎朝東雲さんと狡噛監視官一緒に来るでしょう?」
「たまたまです」
「怪しい…これは怪しいぞ内藤」
「ですね」
「怪しくない。二人とも、さっさと報告書仕上げたらどうですか」

二人を虫でも払うようにして避けると、私もオフィスから退室した。宜野座監視官から冷たい視線を感じる。お前のような潜在犯が狡噛に対して馴れ馴れしいぞ、と無言の圧力をかけられている気すらするのだ。私は多分、宜野座監視官に嫌われている。二つの班で分かれるときも、必ず私は慎也さんと組むことになっている。
嫌われている。彼は私を嫌っている。

「絶対読まない、こんな本」

















「うわー…えげつねーなぁ」

こんなにも凶悪犯罪とは多いものなのだろうか。部屋にはまだ真新しい血の香りが充満している。

「被害者は27歳女性、小倉めぐみ。広告代理店勤務、昨日の深夜にこの部屋で大きな音が聞こえたらしい。異臭がするし、いつも朝は顔をあわせる彼女が見えないので隣の住人で被害者の親友の田村さゆりが不審に思って部屋のインターフォンを押したが応答がない。嫌な予感がして田村が今朝管理人を通して通報してきた」
「ドアの鍵は?」
「閉まっていた。中に鍵が置きっぱなしになっていて、合鍵は母親が持っているものだけだ」
「ははー…密室殺人かよ」

俺の説明を執行官たちは頭の中で整理しているらしい。20階建てのこのマンションは一人暮らしの若い世代が多く住んでいる。一応オートロックになっているため、一階のエントランスでナンバーを入力しなければ入ることができない。

その部屋の2階に住むこの被害者は、拳銃で胸を撃たれて死んでいた。凶器と思われる拳銃は、遺体の傍に落ちていた。また犯人のものと思われる男性用の上着が彼女の部屋の椅子にかけてあったのだ。それと机の上に男性用の指輪が置いてあった。その指輪には血がついていた。その他にもベランダの窓のそばが薄汚れていたが、それは土足で移動した跡だと思われる。だがベランダにはその靴跡がない。
被害者はキッチンの床に仰向けになるように倒れており、キッチンは血の海と化している。遺体の周りには検死用の小型ドローンがちょこまかと忙しなく動いていた。

「…わからない」

ポツリと暁が遺体を眺めながら呟いた。彼女は先程まで冷蔵庫の中を見て何か調べていたようだが、手がかりは見つからなかったらしい。

「わからない…何でここで殺したんだろう。この人、なんでここにいるの…?」
「何でって、何がだ」
「キッチンだよ。気づかねえか、狡噛」

佐々山にシンクの方を指差される。キッチンの台の上には何も置かれていない。綺麗に片付けられていて、鍋やまな板などはきちんと棚の中にしまわれているらしかった。何がおかしいんだ?

「佐々山と嬢ちゃんが言いたいのは殺害方法じゃなくて理由だろ。何で被害者はここで死んでるのか。例えば、料理をしている途中にここで襲われたならキッチンで死んでいても納得できるが、このキッチンには"何もない"」

とっつぁんの話で漸く合点がいった。殺されたのならここで被害者が何かをしていなければおかしい。例えば、料理ではなくても、傍においている冷蔵庫の中の水を飲むだとか、洗い物をするとか。ああ、それで東雲はさっき冷蔵庫の中を見ていたのか。

「冷蔵庫、見たらペットボトルの清涼飲料水が数本入ってた。でも全部未開封だから、これを飲もうとしてここに入ったわけじゃない。シンクにもコップはなかった。わざわざキッチン付きの部屋に住んでるから、料理をする人…。野菜が野菜室に入ってたし」

なら、料理をするためにキッチンにいたわけでもない。そもそも深夜に何故キッチンにいたのだろう?

「キッチンに逃げ込んだという可能性は」
「ない。拳銃を持っている者が押し入ってきて逃げ込むなら、どんなに焦ってもこんな行き止まりには逃げ込まない。もっと奥の部屋へ行くとか、ベランダに逃げたりとか、他の手があったはず」

東雲の発言は筋が通っていた。この部屋は玄関から入ってすぐに洗面所とトイレがあり、廊下を抜けてすぐのところにキッチンが備え付けられている。さらに奥に入るとベッドやテーブルなどのプライベートな空間があり、その部屋の奥にベランダが位置していた。逃げ込むにしても、キッチンに逃げ込むのは理解できない。

「その時間帯に、エントランスの監視カメラに怪しい人影は映ってなかったんですか?」
「ああ。日付が変わってから翌朝の六時までは誰もエントランスを通っていないらしい。オートロックを開けたらログが残るシステムだが、その時間帯はログも残ってない。非常出口のカメラにも人影は映っていなかった」

内藤の質問にはギノが返した。つまり、これでは犯人はここのマンションの住人ということになる。

「それ以外にも、この現場…何か変」
「だな。被害者も犯人も何がしたいのかわかんねーんだよ」
「…一旦引き上げよう。ここで煮詰まっていてもどうにもならない」

俺が玄関の戸を開けて外に出ると、暁が続いて出てきた。彼女は隣の部屋を眺めてからさらに首をかしげた。

「隣の住人が、深夜に大きな音を聞いた…?」
「なにか気になるのか」
「どうして隣人はそんな時間に起きてたんだろう」
「起きてたんじゃなくて、その音で目が覚めただけみたいだぞ」
「…そう」


















「何か、変な、気持ちの悪い事件なんです」

局長との面会で私は今日の事件の詳細を彼女に話した。
被害者のサイコパスは曇りやすくはあるが危険域に達したことはないし、体も元気で極めて健康。趣味は料理。仕事も真面目にこなすし、友達がいないわけでもない。恨まれるようなタイプでもない。
そんな彼女が殺された。恋人はいないのに、男性ものの上着と指輪が部屋に置いてあった。拳銃の弾は正確に彼女の胸を貫き、即死だった。
一体誰が彼女を殺したのだろう?
なぜ彼女は殺される必要があったのだろう?
そしてこの違和感は何なのだろう?

「確かに変ね。気持ち悪いし、吐き気がするわ」

彼女は私の言葉を反復しながら、後ろで手を組んでデスクから外の景色を眺めていた。もう夜だ。局長室から見える外は、夜景にも似てなかなかに美しい。

「君は本件、どの線で見てる?」
「え」
「犯人像や動機は?話してごらん」

私は少し躊躇った。明確な事実がわからない以上、憶測で物を考えるのは良くない。しかし、私の中で凝り固まった誤った考えがベースとして存在しているなら、この件は解決しないだろう。局長に話すことに意味があるのならそうすべきだ。

「犯人は男性で、銃の扱いに長けている男だと思ってます。動機は、はっきりとわかりませんが…怨恨?」
「理由は」
「室内に男性の上着と指輪が発見されたことと、一発で、確実に胸を射抜いて殺していることから」

自信なさげにこたえると、局長は振り向いてにやりと笑った。顎に手をやって目を伏せる。

「どうして、男性用の上着と指輪が置いてあったのかしらね」
「え?」
「どうしてかしら」

疑問形ではなく、断定的な声のトーンだった。わかっているでしょう、と言わんばかりに局長がじっと私を見つめる。

「どうして?私が犯人なら、現場に上着なんて残さない。自分が犯人ですよーってばらしてるようなものだわ」
「あ」

胸のつっかえが取れた。引っ掛かってたのはこれだ。犯人が現場に所持品を残すなんて、おかしい。

「でも…何で?」
「それを考えるのが君の仕事でしょう。それで、その上着は誰のものかわかったの?」
「それが、わからないんです」
「あらあら」

くすくすと笑うと局長は立ち上がり、客人用のソファーに座る私の向いに立ち、腕を組んだ。

「君はまだ若い。若さ故に、様々な勘違いを起こす。しかしそれが成長の糧となる。人はそうして大人になる。この私もね。明日にはきっと解決するわ、もうおやすみなさい」

局長はそれ以上のことは何も言わずに、目だけで宿舎に戻るように訴えた。私も失礼しますと一礼して局長室を出た。

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