「どこに行きたいんだ」
「…どこでも」

ドラッグの事件と女子高生殺人事件が一段落着いて、ここ数日で慌ただしかった一係にも暫しの平穏が訪れた。
今日は東雲が初の外出届を提出した日で、俺達は刑事課の車で高速を走っていた。一体どういう風のふきまわしなのか、これは局長直々の命令なのだ。
局長が東雲を可愛がっているのは一係では周知の事実だが、東雲が行きたがっているのではないなら、控えるべき行動ではないだろうか。「お願いね」と局長本人にあの奇妙な笑顔で直談判で頼まれた手前、断る訳にもいかず。

執行官の外出の際には必ず監視官が同伴しなければならない。これは規則であり、守らなければならない俺達の職務の一つでもある。東雲はあの日以来、ほんの少しだが俺に歩み寄ってくれるようになった。と言っても、きちんとした挨拶をしたり、たまたま昼食を一緒にとる程度だが。当初のつんけんした態度もほんの少しではあるが穏やかになったように思う。

「どこでも、って」
「私は10歳から今まで私的理由で外出したことがない。だから、行きたい場所なんてわからない」
「なら、なんで外出届を出したんだ?」

俺がそういうと、彼女は黙りこんでしまった。心配して助手席の彼女を横目でちらりと見ると、見るからに元気がないのがわかる。
服は誰に見立ててもらったのか、胸元にリボンがついた白く柔らかいブラウスに、膝には少し届かない丈のキュロットスカート、薄く淡いピンク色のジャケットを羽織っていた。普段の黒いスーツに身を包んだときの凛々しさとは違う、女の子らしさというものを感じる。俺も今日は私服なのだが、これではまるで───。

「あ…いや、悪かった」
「いえ、別に。…狡噛監視官は、普段、休日はどこに」
「そうだな、俺は」


















「すごい…」

年頃の女の子をどこに連れていけばいいのかなんて、わからない。年頃の男が言うセリフじゃないが、俺の場合はそれだった。
こういうとき佐々山ならそこそこいい店に連れていったりするのだろうか。俺は女性経験が少ないので、どうすべきかわからず、彼女が行ったことのない場所をただ羅列した。すると彼女は意外にも水族館に興味を示したのだ。
江ノ島のアクアリウムは何度か行ったことがあるし、そこにしたのだがそれは正解だったのか間違いだったのかはわからない。

「綺麗……狡噛さん、あれは何?あんなに大きな魚、本物?生きてる?オートメーションじゃなくて?どうしてあんな形をしてるんだろう」

彼女はこれまでにないほどに目をきらきらと輝かせて、分厚いガラスの大きな水槽にへばりついていた。
俺の名前も狡噛監視官から狡噛さんとくだけた呼び方になっている。幼い子供のような反応に胸の奥がかっと熱くなった。こうしていれば東雲だって普通の女の子なのだ。

「本物だ。あれはジンベエザメだな、クジラの仲間だ」
「クジラ?クジラって何?それは魚?どこにいる?」
「クジラは…その…海にいて、大きな生き物なんだ。一口で小魚を一度にたくさん食べる。哺乳類だったな、たしか」
「そうなの」

彼女はどこか俺の返事にも上の空で、一生懸命水槽の魚を見ていた。天然魚なんてものは珍しく、アクアリウムくらいでしか本物の生きている魚は見られない。少なくとも東京に住んでいる限りは。

平日のため人も疎らで、あまり周りの目を気にする必要もない。というか、ほぼ俺達の貸切状態だった。これでは俺と彼女は恋人に見えてしまうのではないだろうか。だが不思議と、俺はそれが嫌ではなかった。むしろ喜ばしくすらあったのだ。彼女を知るたびに、彼女に知識を与えるたびに彼女との距離が縮まったような気分になる。それがなんとも言えず満たされるのだ。
そんな俺の思考に彼女は気づくはずもなく、幼い少女のように俺を見上げて次はどこに魚がいるの、と訊ねる。

「わあ…なにこれ」

彼女のペースにあわせて熱帯魚などの小型の魚のコーナーに入る。室内は薄暗く、しかし彼女はそんなことなど気にならないとでも言うようにカクレクマノミを目で追いかけていた。

「狡噛さん、この壁と床にくっついているは何?どうしてこの魚はこの変なもののそばにいるの?」
「それはイソギンチャクっていう生き物だ。クマノミはそこに卵を生んで育てる。ほら、そこに卵が見えるだろ?共存して生きてるんだ」
「そう」

彼女にならんでイソギンチャクのそばでひょこひょこと泳ぐカクレクマノミを眺める。鮮やかなオレンジ色に白い縦のラインが入った小さなクマノミは、じゃれるように尾ひれを揺らしていた。
疑問を次々と俺にぶつけてくる彼女は、いつもの職場での彼女と似てもにつかない。

「こんなに小さいのに、生きてる…」

クマノミを見るのも初めてらしい。写真や図鑑などは見なかったのだろうか?
彼女は小さな水槽がいくつもあるこの部屋の中をうろうろしながら、いつもより熱のこもった声で感動を表す。

「生きてる」

あるときは彼女は水槽の中で泳ぐエンゼルフィッシュから目を離さずに、またあるときは小さな鯵の群れを見ながらぽかんとした表情で呟くのだ。

「生きてる」

うろうろとしながら深海魚のコーナーを通り抜け、神秘的な雰囲気のクラゲのコーナーまで来た。彼女は飽きる様子もなく、とても小さなエダアシクラゲの円柱形水槽や、中型の水槽の鮮やかなハナガサクラゲ、大きなミズクラゲなどを楽しそうに眺めている。
その端で、彼女は何か別の生き物を見つけたらしく静かに一つの小さな水槽に近づいた。その時、彼女は動揺したようにぴくりと反応し、その後少しも動かなくなった。棒立ちでその水槽を眺めている。
少し離れて見ていた俺も違和感に気付き、彼女にそれとなく近づいた。

「どうした?」
「…」

彼女は無表情のまま水槽を指差した。プレートには『クリオネ』と書かれている。その名のとおり、クリオネの水槽らしい。俺も彼女に並んで水槽の中を眺めた。
数十匹というクリオネが天使のような姿で水中をぱたぱたと泳いでいる。それだけなら普通なのだが、餌の時間らしく、クリオネたちはオートで落ちてくる餌を口から触手のようなものを出して素早く体内に取り込んでいた。半分透けたような体に、補食した餌が見えている。

なぜだかわからないが、反射的にまずいと思った。彼女はそれまでの楽しそうな表情から一変して、無表情になっている。まずい。早くここから離れなければ。

「東雲、もう行こう。あっちにはまだ他にも展示があるらしい」
「…」
「東雲?」
「…私と一緒」

彼女は虚ろな瞳で補食をやめないクリオネを見つめていた。

「一緒…これと同じ。私は檻の中で、死体を貪り食っている…閉じ込められた中で、許されるのは餌を食らうこと、人を殺」
「東雲」
「他の水槽も同じ、生きてるんじゃない、生かされてるだけ。本当はクマノミだって、クラゲだって、あの大きなクジラも…生きたくて生きてるんじゃない…見世物として生かされてるだけ…私は人を殺すために生かされてるだけ…」
「暁!」

彼女は心底がっかりしたような顔で俺を見た。泣いてはいなかったが、泣きそうな顔をしていた。とても大切なものをどこかで落としてしまって、それにたった今気づいて親に怒られることに怯えている子どものようだ。
無意識に彼女の名前を呼んだ自分に驚きながら、彼女の目を見る。

「もう行こう。疲れたんだ。少し外の空気を吸った方がいい」

彼女の手を少し強く引いてアクアリウムから出た。そばの自然公園のような場所に移動して藤棚のようなホログラムの下にあったベンチに座らせる。そばの自販機でコーヒーを二本買って戻ると、彼女はまだどこか虚ろな目をしていた。
公園には小さな子どもがふたりと、その親がいるだけでほとんど無人だった。

沈黙が流れる。
彼女の手に缶コーヒーを握らせると、彼女は初めてそれに気づいたらしく、申し訳程度にありがとうございますと呟いた。目にはもう影はなかったが、泣きそうなか細い声だった。

「…忘れてた。とっても大事なこと。…忘れてた、こんなに大切なこと」
「…」
「狡噛監視官。勘違いしていた、私は自分が人間だと思っていた。狗は人間になれないのに、私は自分が人間だと、思い込んで」
「お前は人間だよ」
「違う、私なんか人間じゃない。執行官は人間じゃない!」

彼女は聞き分けの悪い子供のようにぽろぽろと涙を溢して首を振った。泣いた顔は初めて見る。不謹慎だが、可愛かった。執行官を可愛いと思うなんて、ギノが聞いたらどうかしていると思うだろうか。

あのクリオネを見て、彼女が何を思ったのかは容易に想像できる。
そして俺はこのとき初めて、彼女は自らが変わることをひどく恐れているのだと理解した。今もきっと、執行官なのだから、狗なのだからと必死になって自分に言い聞かせて抑え込んでいるに違いない。でも心の奥底では、人間になりたくて仕方がないのだ。
そんな彼女が健気で純粋で、可愛いと思える。いつもの俺なら涙をハンカチで拭いてやって、適当に慰めながら宿舎まで帰しただろう。だがそれは出来なかった。

「お前は人間だ」

そっと彼女の頭を撫でる。抵抗はしなかった。涙で濡れた顔で東雲はじっと俺を見上げていた。公園には誰もいなくなっていた。子どもはふたりともいない。その子達の親も。

「お前は人間だよ」

ほとんど無意識に彼女の背に腕をまわしていた。あまりに自然なものだったから、彼女は驚くことも忘れていたし、俺も一瞬自分が何をしているのかわからなかった。
今日の俺は何かおかしい。泣いている東雲を見て可愛いと思ったり、彼女の心の奥を見透かしてほくそ笑んだりしている。正気の沙汰ではなかった。

だがそんなことに全く気付かない彼女は、小さな嗚咽を漏らしながら俺の胸元にすがり付いて首筋に顔を埋め、泣いていた。それが当然であるかのように、彼女は何の抵抗もなく俺に凭れるようにして泣いていた。

小さく聞こえる息遣いや、体温が上がって赤くなっている彼女のうなじには幼さが残っている。

「狡噛、監視官……」
「…どうした」
「すみません、ごめんなさい…怒らないで…怒らないで…お願いだから怒らないで」
「何で怒るんだ?東雲、俺は怒ってなんか、」
「怒らないで…お願い、怒らないで、いい子にするから…嫌いにならないで、私頑張るから…!」


















「おっかえりィ〜」

あの後泣き疲れて眠ってしまった東雲を部屋へ送り、簡単に局長に報告を済ませた。局長は俺の報告に対して何か言うわけでもなく、ただ俺の心の奥を見透かさんとばかりにじっと俺の目を覗き込んでいただけで、内容自体に不満はないらしい。「そう、初めての外出できっとはめを外しすぎたのよ。あなたはなにも悪くないわ、後はこちらで対処するから。ご苦労様、帰っていいわよ」こんな風に彼女はテンプレートの言葉を述べ、微笑んだだけだった。

その後、帰ろうと廊下を歩いているとトイレから出てきた佐々山と鉢合わせたのだ。そういやこいつ今日日勤だったな。

「暁ちゃんとデート?」
「そんなんじゃない。からかうのは止せ」
「けっ、硬派だねぇ、狡噛監視官は。どこまでいった?…あー腰立たなくなっちゃったらしいな、お前童貞だと思ってたけど案外激しいじゃん」
「佐々山」

俺が不機嫌丸出しで佐々山を睨み付けると、冗談だろと笑い飛ばされた。悪びれる様子もない。

「施設の中では、どんなことをするんだ?」
「は?」

さっきの東雲の言葉が気になって、なんとなく質問すると佐々山は嫌そうな顔で俺をしげしげと見つめた。

「どんなってお前…」
「佐々山と東雲がいた施設は違うのか?」
「知らねーよそんなん。…あいつはガキの頃から塀の中だろ、そりゃ多少は待遇も違うんじゃねーの」
「そうか…そうだな」
「さては恋煩いですか狡噛監視官」
「佐々山、ふざけるのも大概に」

俺が佐々山を睨み付けると悪うございましたねーと佐々山はからかうように笑って刑事課のオフィスへ戻ってしまった。

「ガキの頃から塀の中、か」

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