「なぁ、暁ちゃんってさー…あのババアのお気に入りなんだよなぁ?」

がたがたと座席が微かに揺れる。薄暗い護送車の中にはどこか重たい空気がのし掛かっていた。目を閉じて静かに座っていると、隣にいた佐々山光留が私に声をかけてきた。もう呼び方を注意するのは諦めることにしたのだ。

正直、彼は苦手な部類の人間だ。彼と会話をするのは得意じゃない、馴れ馴れしいし。でも局長は寄り添うことも大切だと言っていた。だから返事をしたのだ。

「…どうしてそう思う」

佐々山光留は局長を貶したような言い回しをする。ババアとか、若作りとか。もちろん、本人がいないときに限るが。それはあまり気に入らないが、私もそこまで局長を崇拝している訳ではないし、それを訂正させるほど彼と会話を弾ませる気もないので黙っていたのだ。

「だってなー?よく目にかけてんじゃん、お前のこと。最終的に暁ちゃんを執行官にするよう押し切ったのもあのババアだろ。未成年の登用ってのは前例がないからな。前例がないことをやるってのはお役所仕事が嫌いなことだ。余程のことがない限り避けたい選択だしな」
「…」
「しかし、まあ…ワンマンだからなぁ、あのババア。俺達を見るときのあの女の目は────」
「…バカはよく喋るって本当らしい」

私が目を閉じたまま呆れたように言うと、佐々山光留はつっかかってきた。だがそれもどうでもいいので、無視した。

それにしても、狡噛慎也はなぜ私の意見を聞こうとしたのだろう。私から信頼を勝ち得たかったのだろうか?わざと頭がおかしいような発言をしてみたけれど、それを真に受けるなんて。バカなのか、天才なのか。しかし、厚生省の公安局勤務をA判定で通ったのだから、前者である可能性は低い。だとしたら彼は、私を───?

いや、そんなことはどうでもいい。それよりも、佐和山香織の遺体の状態が気になる。このチームは大丈夫だろうか。佐々山光留と征陸さんは問題ないだろうが、心配なのは新米監視官の方。特に宜野座…名前なんだっけ…宜野座監視官のサイコパス。
佐和山香織の遺体は、彼らの精神に強く作用するに違いない。それだけが気掛かりなのだ。それだけが面倒なのだ。
















「…ここだな」

東雲の言う通り、原の自宅であるアパートに着くと、彼らも執行官専用の護送車から降りてきた。公安局権限でロックを解除して室内に入る。
念のためにドミネーターも携帯しているが、室内には誰もいないらしい。俺が部屋を見渡していると、背後にいた東雲が迷いなく奥のリビングへと入っていく。他の面々も黙ってそれに続いた。

「あった」

彼女は目当てのものを見付けたらしく、リビングの電気をつけて、備え付けの簡易クローゼットをじっと見つめた。ぴたりと引き戸式のそれは閉じられていて、清潔感すら感じる。

「…あったって、何がだ?」
「監視官、バラバラ殺人の遺体って見たことある?」

何だって急にそんなこと言い出すんだ。俺とギノは首を横に振った。
すると、彼女は数度瞬きして、苦手だったらハンカチとか用意して、吐くならトイレで吐いて、と言った。それからこの遺体を見て本部に戻ったらすぐにメンタルセラピーを受けること、と言うのだ。これではまるで今からバラバラ死体を見ますよと言っているようなものだ。
それをとっつぁんは終始渋い顔で聞いていたし、佐々山は合点がいったらしく早く開けろとばかりにクローゼットをまじまじと見つめていた。

「配属初回の事件がこれってキツくね?」
「運の悪さがピカ一ってことだな、気の毒だが」
「…さっさと片付ける」

彼女は覚悟を決めたような声を出すと、ゆっくりとクローゼットの戸を開けた。

「…おーおー、こりゃすげぇな」

一瞬の沈黙の後、最初に声を上げたのは佐々山だった。その佐々山の声も、僅かに上擦っていたのを俺は聞き逃さなかった。
東雲は特に表情を変えることもなく、ポケットからビニールにいれられたゴム手袋を取り出して嵌めると、クローゼットの中に置かれていた瓶を数本取り出した。デバイスでドローンの応援を呼び、じっとそれを見つめる。

「なんだ、これ」

俺とギノは動揺して冷静にそれを見ることが出来なかった。

クローゼットの端に置かれていた人一人入れるくらいの大きな青いバケツは、きっちりと蓋が閉められている。そのポリバケツには、油性インキで丁寧に文字が直接書かれていた。

「『カオリちゃんのいえ』」

彼女は無表情のままその文字を読むと、これ以上は無駄な詮索だと告げた。後は検死のドローンに任せればいい、我々の出る幕は終わった、と。そしてゴム手袋を外すと、ゴミ箱に投げ捨てた。

そこではたと思い出したように青い顔の俺とギノを見ると、玄関の方を指差したのだ。

「…吐くならトイレで、どうぞ?」















『東雲執行官、実に華々しい推理だったわね、おめでとう』
「…」

現場から戻ると、局長から直接通信が入った。仕事をして誉められたのは、今のが初めてだ。

『そうそう、狡噛監視官のことなんだけどー……何かお話があるみたいよ?』
「あの男と話すことはなにも、」
『まあそう言わずに。まだ彼とちゃんと喋ってないでしょ、君』

この後私は非番で特に用がないということを見込んでのことらしい。いい気はしない、だって私はああいう人と話すのが苦手なのだから。
だが局長直々のお願いとは断るわけにもいかない。狡噛慎也ってそういうところもわかってる。だからこそ苦手なんだけど。

『遺体の心配はしなくていいわよ。検死は今分析室がやってるわ。何より出血の多い遺体だからね…』
「遺体の腐敗は」
『予想の範囲内だったわ。検死官の腕に任せるしかないわね。親御さんにはなんて説明しようかな……あ…大丈夫、これは一係の案件なんだから、ちゃんと検死報告はさせる。だから早く第二会議室に行ってくれないかしら、狡噛慎也はこの後の昼の二次当直勤務なのは知ってるわよね?』
「…すぐに向かいます」

これはもう行くしかないのだと悟った。デバイスの通信を切ると、館内マップを表示させて第二会議室を調べた。
刑事課フロアの端にあるらしく、容易に着いた。自動ドアがゆっくりと開く。中は電気のお陰で明るかった。会議室の机に凭れて、その男は窓から外をみていた。


















「早かったな」

どうせ俺とは顔を合わせたくないだろう。日勤は昼からもあるがぎりぎりまで待てるだけ待とう、そう思って缶コーヒーを飲みながら第二会議室の広い窓から外の景色を眺めていると、意外にも東雲はすぐにここに来た。
俺としてはもう少し気長に待つつもりだったのだが、本人は局長に言われてやむを得ず、という感じだ。彼女は入ってすぐのドアのそばに立ち尽くしていた。

「話ってなに」

さっさと済ませたい、と言わんばかりに彼女は俺を見た。棒立ちのまま、俺の次の言葉を待っているらしい。少し躊躇いがちに東雲の顔を見ると、意を決して小さく息を吐く。

「一先ず、御苦労だった。件の遺体は佐和山香織本人と一致したらしい」
「そう」
「…お前は、どこで気付いた?」

彼女は目をぱちぱちと瞬きさせると、少し戸惑ったような顔をしていた。

「最初に、取引現場を押さえたとき」
「…取引現場?」
「厳密に言うと、原を執行したとき」
「何に気付いたんだ」
「汗の、臭い」

彼女はぼそぼそとうつ向きながら呟いた。

「メチル-2-ヘキセン酸、精神分裂病患者特有の体臭だった」
「…東雲、お前本は読むか?」
「え」

東雲はわけがわからないという顔で俺を見ると、首を横に振った。小説の類いは読んだことがないのだという。
今のは"羊たちの沈黙"からの引用文だ。レクター博士がクラリスに傍の檻の異常者を説明するシーン……。何だ?なにかがおかしい。そもそも精神分裂病なんて言い方はしない、今は統合失調症という呼び方に統括されている。医学書からも消えた単語だ。なのになぜ彼女は、読んだこともない本の一節─────それも殺人鬼ハンニバルのセリフ─────を知っているのだろう。
彼女はこういう冗談を言う人間ではない。それは俺もよく知っている。ただ単純に原の汗のにおいを独自でヘキセン酸と判断したのか?だがそんな臭いは普通の人間は感じ取れない。そこまで彼女は医学に長けているのか?それなら分析官から声がかかるはずだ。ならば、何故この女は……?

「…あの」

黙って混乱する俺を見かねたのか、東雲はちょっと不機嫌そうな顔で俺とデバイスの時計を交互に見た。それでやっと俺も落ち着きを取り戻し、軽く息を吐いて目の前の彼女に集中する。

「いや、妙な詮索をして悪かった。ただ、俺は…いや、俺達は、東雲暁という人物を一人の仲間として受け入れたんだ。お前の勝手行動は目に余る。執行官の職務はチームプレーだということを忘れるな」

俺の言葉に、彼女は鼻で笑うと呆れたようにじっと俺の目を見た。

「チームプレー…?…狡噛監視官、執行官の間にはチームプレーなんていう都合の良い言い訳は存在しない。有るとすればそれは、スタンドプレーから生じるチームワークだけだ」















自室に戻ると、局長がいた。珍しい光景があったものだ。局長は私のベッドに横たわり、紙の本と言われる文庫本を山のように積み上げて、その山のそばでゴロゴロと退屈そうに体を揺らして一冊の本を読んでいた。

「おかえり」
「何をしているんですか」

私はジャケットを脱いでハンガーにかけると、本に埋もれる彼女の体を一瞥した。

「読書よ、読書」

彼女は起き上がって手をヒラヒラさせると、今読んでいる文庫本の表紙をこれ見よがしに私に突き出した。
ハンニバル・ライジング下と書かれている。そばには羊たちの沈黙の上下巻、さらにはハンニバルの上下巻、レイチェルやレベッカ、さらにはガリヴァー旅行記など、様々な本でいっぱいだった。ひとつわかったのは、これらの本はとても古い本で、外国人作家のものであるということ。私は何一つこの本を知らない。本に興味がわかない。
どうせ局長は仕事が嫌になってここに逃げ込んだのだろう。この人らしいと言えばこの人らしいこと。

「読書は良いわよー、心を豊かにしてくれるからね」
「そうですか」
「つれないわね」

局長は微笑むと、今の今まで目を通していたハンニバル・ライジング下巻を閉じて、レベッカの上巻に手を伸ばした。



























一部トマス・ハリス著『羊たちの沈黙』、攻殻機動隊より荒巻大輔の台詞を引用

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