「どこかでお会いしましたか」

ここはどこだろう。
冷たい、刺すような胸の痛みと哀しみ。小さく息を吐くと水のあぶくがこぽこぽと音を立てて私の口から吐き出された。

どうもおかしい。
水中にいるらしいが呼吸はできる。苦しくない。酸素は口から取り込むまでもなく私の全身へ染み渡り、呼吸は意味を失くしてしまったらしい。
心地よい水温と共に、私の髪と着ているワンピースが水の力によって大袈裟に揺れる。いつからこのワンピースを着ていたのだろう?
いつから、ここにいたのだろう?

不思議な感覚に捕われたまま、ぼんやりする頭を働かせて目の前を見つめると
一人の少年が立っていた。
いや、厳密に言うと青年かもしれない。水中だというのに水が眼球を撫でるあの独特の不快感もなしに、彼をじっと見つめることができた。
柔らかそうな銀髪を靡かせて、青年は微笑んでいた。白いシャツに、薄い色のパンツをはいている。

「さぁ、実は僕もよく覚えていなくて」

甘い声だった。
少し掠れたような、でも色香を含んだ優しい声音。つい最近声変わりしたばかりの少年にも見えるし、この世のすべてを観察してきた老人にも見える。

「でも、どうしてかな」

彼は片足で背後の空気…否、水を軽く蹴ると、真っ直ぐ私の元までやってきた。ひどく軽やかに、まるで水中を真っ直ぐ泳ぐ使命を持たされてしまった魚であるかのように。
彼の細く白い指先が私の両肩に置かれる。その反動で、私の髪が背後で踊っていた。
彼は私の目の前で立ち止まると、私の肩から手を離し、そっと私のお腹に手を当てた。下腹の方だ。冷たくて白い、長い指先を持った手が、慈しむように私のお腹を撫でる。
彼はとても哀しそうな目で、私のぺたんこのお腹を撫でていた。

「君と、初めて会ったような気がしないんだ」
「私も」
「もうすぐだね」

お腹から手を離すと、今度は彼の顔が近づいてきて、彼の唇が私の唇と重なった。

「もうすぐ会えるよ」

不思議と、悪くない気分だった。



















「夢?」

唐之杜志恩は見た目の美貌とは裏腹に、小ざっぱりした性格の持ち主らしい。私が軽く頷くと、彼女は快活に笑って見せた。

「東雲さんも夢とか見るんだぁ」
「私も人間ですから」
「へぇー?で?その男の子に心当たりはないの?」
「ないです。でも不思議と、懐かしい感じがしました」

私がここで執行官として働いて、少しは時間が経った。彼女がここにやってきたのはつい最近のことだ。大人の女独特の色香と風格を醸しながら、唐之杜志恩は足を組み替える。
今日は分析室に渡したい資料があるから、と呼び出されたのだ。

「でもその人、お腹を触ってたんでしょう?」
「ええ」
「何かの暗示かもね。何十年も前は夢占いなんてものがこの国でも流行ったらしいけど」
「暗示ですか」
「下の方でしょ、お腹の。例えばそう、妊娠とか」
「妊娠?」

私が鸚鵡返しすると、唐之杜志恩はくすくすと笑って冗談だよ、と言った。妊娠?子どもの作り方も知らない私が?
ありえないだろう。第一、私にそんな資格なんてない。潜在犯の子どもなんて、きっと生まれてきたって悲しい思いをするだけだ。

「これ、調べてほしい」

私が口を噤んでいると、先ほどとはうってかわったような態度で、唐之杜志恩は小さなメモリーカードを私に見せた。手のひらで私にしか見えないようにそれを見せると、とても小さな声で、こっちに来て、と囁いた。

「これ、慎也くんと見て。メガネの方には言っちゃダメ」
「わかりました」
「また明日」

そっと私の身体に腕を回して抱き寄せると、その流れで私のスーツのポケットにメモリーカードを滑り込ませる。小さく頷き、私はそっと身体を離した。
















「お疲れ様です」
「ああ」

日勤の後、デバイスで暁からのメッセージを受け取り、俺は彼女の部屋へ赴いていた。内容は至ってシンプルだ。「仕事のことで話があります」と。直接話さないのは何らかの事情があるからだろう。

「お前からこんな連絡珍しいな」
「厄介なことになっているようです」
「?」

先ほどまで同じく日勤であった彼女はジャケットを脱ぐと、シャツの一番上のボタンを外した。入り口で立ち尽くしている俺を見ると、スタスタと近づいてがしりと抱きついてきた。不覚にも心臓が跳ねる。

「盗聴器、ありますよね」
「あ、ああ」
「切って」
「な…」
「いいから、切って」

監視官が執行官と接するときに義務付けられている録音を切る。義務付けられている、というと語弊がある。厳密に言うと任意なのだが、監視官の中では半ば強制的なものだ。デバイスには録音解除という文字が浮かび上がった。

「上層部に何かある」

彼女もデバイスの文字を確認すると、俺の手を引いて寝室に向かった。部屋のつくりはもうすっかり覚えてしまっている。彼女の手の冷たさを感じながら、何か異様な空気を感じ取っていた。

「唐之杜分析官がリークしてくれました。とても内密に、私とあなた以外にはけして見せてはならないと」
「何の情報だ」
「わかりません。それを今から二人で見るんです」

彼女はベッドに投げ出されていたタブレットを手に取ると、少し焦った様子でメモリーカードを読み込ませた。こういう事態は初めてだ。

「君島ワクチンに関する報告書」

タブレットに表示された文字を彼女は小さな声で読み上げた。

「君島ワクチンか」
「知ってるんですか」
「今朝ニュースで取り上げられてた。君島英彦博士が開発したワクチンで、最近流行りの原因不明の心不全に対して有効と言われているらしい。正規実用化もそのうち行われるだろうと言われているが詳細はまだ開示されてない」
「それは正規の情報なんですか?」
「さあな。恐らく関係者がマスコミだか報道庁だかにリークしただけかもしれん。会見も開いてない」
「…その君島ワクチンに関する報告に、何かあるようですね」

俺も頷いて文書に目を通す。報告書、というよりはまるで手紙のような書き方だ。


今まで多くの人々の精神と命を奪ってきた原因不明の心不全の確固たる原因を掴みました。私は君島英彦と申します。現在マスコミによって報道されております、私が開発したワクチンはその心不全の症状を和らげる効果があることが確認されました。しかしながら、このワクチンの運用には厳しい認可が必要となり、最悪の場合は厚生省によって存在そのものを揉み消されてしまう可能性まで浮上しています。詳細はこの文面からは話せません。一度、私の研究所まで来てはいただけないでしょうか。いつでも構いません。できるだけ早く、お待ちしております。

君島 英彦


「誰に当てられたものなんだ、この手紙は」
「それは…」

暁が言い淀んでいると、俺のデバイスが鳴った。志恩からだ。

「どうした」
『文書は読んだ?』
「ああ」
『じゃあそこに暁さんもいるわよね?端的に話すわ。それ、分析室宛てに送られてきたの。博士からのSOSと見ていいと思う。どこであたしのアドレス手に入れたんだか知らないけど』
「それで上に上げなかったのか」
『そうよ。厚生省内で不正の働きかけがあるなら、上には出せない。となるとあたしが頼れるのは君らくらいだからね。犯罪の片棒担がせるみたいですごくヤなんだけど…』
「構わない。研究所の住所と番号を頼む」
『わかった。いつなら行けそう?』

そこで暁が口を開いた。

「明日は私が非番だから、慎也さんに同行してもらえれば、個人的に向かえるけど」
『オーケー。いい、監視官?』
「ああ」
『じゃあこっちに保存してる文書のバックアップは消しとく。その文書も読み終えたら消しておいて。多分、所持しているだけでかなり危険だから』

そこで志恩からの連絡は切れた。一瞬の沈黙の後、暁は文書にもう一度目を通し、メモリーカードを抜くとパキリと折って俺に向かって投げた。捨てておけという意味なのだろう。

「厚生省が揉み消したくなるようなワクチン、か」
「厚生省の方針に反するのかもしれない…何か裏がありそうですね」

薄暗い室内で彼女はじっとタブレットを見つめていた。
君島博士がそうまでして俺たちに伝えたいこととは、何なのだろう。そもそもワクチンの認可が医務関係の省庁になかなか通らないというのはよく聞く話だが、厚生省で通らないとはどういうことだ。

「シビュラシステムに関係があるのかもしれない」

真っ暗な画面のタブレットを見つめながら、暁はぼそっと呟いた。
















「リークされた君島ワクチンの報道を認可したのは貴女じゃない」

また面白そうなものが出てきたな。僕は紅茶を啜りながら、読みかけの本を手に取った。栞を挟んでいたページを開き、目を通す。スピーカーモードになっている電話口から、彼女の声が響く。

『どうしてそう思うの?』
「直感ですかね」
『その直感は当たってる』
「貴女ならもっと穏便に、狡猾に、鮮やかに、何一つ無駄もなく…最小限の犠牲しか出さず、全てを無かったことにできる手段を持っているでしょう。これには誰か他の意思が介在しているということかな?」
『80点。いい線いってるわね。報道庁の口止めなんてこっちでやればできるし、こんな報道自体国民もすぐ忘れるわ』
「酷いな。そんな国民を作ったのは貴女でしょう。…貴女は君島英彦をどうするつもりなのかな?」

クスクスと笑う彼女の声が聞こえた。

『君島教授は私もお世話になってる。それ相応の処遇を与えなければ、失礼だもの』
「それ相応の処遇」

僕が反復すると、彼女は「そうよ」と同意した。
それ相応の処遇、か。ページを捲りながら文章に目を通す。タイタス・アンドロニカス。ゴートの女王タモーラと、彼女の愛人のエアロンの策略により、タイタスの娘・ラヴィニアがタモーラの息子たちに陵辱されるシーン。シェイクスピアの悲劇を読むと犯罪係数が上がるーーーそう言われるようになってから、一般には流通されなくなった。読まれたとしても喜劇のみだ。
ラヴィニアは口封じに舌と両手を切り取られてしまう。過去にこれほど残酷な処遇はあったのだろうか?

『死ぬよりも残酷なことって何だと思う?』
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -