私も子どもを育てたことがあります。
お乳を吸っている子供がどんなに可愛いことか。
それでも、私の顔を見ながら微笑んでいるその子の柔らかい歯茎から乳首をもぎ取り
その子の脳味噌を叩き出してみせます。
さっきのあなたのように、いったんやると誓ったからには。


マクベス
ウィリアム・シェイクスピア




















「絶対読みませんよ、こんな本」
「どうして?」
「気が滅入るじゃないですか」

グソンはもう少し柔軟な頭を持っていると思っていたんだけどな。
僕はタオルで髪をわしゃわしゃとやりながら、苦く笑った。グソンは困り顔で傍に置かれた本を見ると、サングラスを外した。義眼なのだ。その瞳には先程僕が置いておいた太宰治の『人間失格』の文庫本の表紙がうつっていることだろう。あ、嫌そうな顔した。

「それより旦那、あの女のことですけど」
「何かわかったのかい」

彼の横に足を組んで腰掛ける。ぎし、と小さな音をたてたこのソファーの座り心地は存外悪くない。ただカバーを革張りにしてほしいという僕の希望は通らなかった。

「それが、どうもねぇ」

天才ハッカーは苦悩していた。それは見ればわかるし、ある程度僕も予想していたことだ。グソンはかれこれ二時間ほど画面とにらめっこしながら作業に没頭していたのだが、ここでとうとう集中力が切れてしまったらしい。

「わかった情報だけまとめてみました。ほんとに、これだけしか今はわからないんですよ、悪いですけど」
「構わないよ、見せてくれないか」

示された画面を眺める。電子ディスプレイには彼女の名前と性別、年齢しか載っていない。

「東雲暁、十八歳、女性。階級は執行官…これだけか。誕生日も載っていないね。お祝いできないじゃないか」
「…プライバシー保護のためという名目にしてはセキュリティーが厳重すぎます。試しに他の執行官も調べてみましたが、ざるでしたよ」
「なるほど……つまりこの東雲暁という女は、公安局にとって極めて異質な存在というわけだ」

天井を仰ぐ。楽しそうですね、旦那とグソンが笑った。いや、正しく彼の言う通りさ。面白いものを見つけたのだから、楽しくないわけがないだろう?

「それと、たまたま公安局の監視カメラをクラッキングしたときに、東雲暁と思われる女が写ってましたよ。…ああ、あった。多分これです」

グソンは機器を操作すると、また僕に画面を見せてくれた。少女の横顔だった。ちょうど振り向いたときの画像らしい。画質はあまりよくないが、顔ははっきりと識別できる。思っていたより横顔は大人びていた。やはりどこかあの人の面影がある。

「この女について、もう少し調べてくれないかな」
「いいですけど、何も出ませんよ多分」
「いいんだ。クラッキング以外にも僕らが東雲暁について情報を手に入れる手段はある、そうだろ?」
「旦那はなぜこの女に固執するんです?」

「…そんなの、僕が知りたいよ」





















「田村さゆりの事情聴取?」
「任意のな。十時にこちらに来る」

また急な話だな。例によって俺が暁と出勤すると、ギノがぴりぴりした様子で俺の横をじっと見据えた。彼女も目をそらさずにじっとギノを見つめ返す。

「東雲」
「なに」
「お前がやれ」

ギノの指示に一瞬の沈黙が流れた。オフィスには佐々山と内藤ととっつぁんが既にいたのだが、後者の二人は何も言わず、佐々山は目だけで俺達を見ていた。

「…任意の事情聴取は原則として監視官が執り行うもの。執行官による聴取は服務規程に反する」
「そういったマニュアルに反してまで、お前が出なければならない状況だということだ。田村さゆりは聴取の担当者をお前に指名している。それ以外の人間とは何も話したくない、と」
「彼女はなぜ私を知っているの」
「この前の家宅捜査のときにお前を見かけたらしい。何を思ったのか…局長の許可も降りている」
「そう。わかりました」

局長という単語を聞いた瞬間、暁が素早く数回瞬きして頷くとすたすたと自分のデスクに着いた。明らかに、動揺している。

「俺には相談もなしか、ギノ」
「局長命令だったんだ。すぐにお前に連絡を入れられなくてすまなかった」

申し訳なさそうな顔ひとつせずにギノは言い放つと、俺も返す言葉を失ってしまう。そうかよと返事をすると、俺もデスクに着いた。何だか妙に痼のある朝だ。
昨日の続きで書類を完成させねばとタブレットを起動させると、画面越しに彼女と目があった。

「…」

彼女は何か思案に耽っているらしく、俺をじっと見つめながらも俺を見てはいないようだった。俺ではなく、俺の向こう側を見ているらしい。瞬きひとつせず、口許に手を当てて何か悩んでいるようにも見えた。俺と視線は合わないが、瞳は吸い込まれそうなほどに神秘的な光をたたえている。見ているこちらが目を離せなくなりそうなほど、彼女の瞳は魅力的な色を持っていた。

「あの」

彼女は俺をじっと見つめながら、口を開いた。その場にいた全員が、彼女の声に注目した。

「小倉めぐみのことで、気になることがあって」
「何だ」
「現場、おかしくない、ですか」

彼女は言葉を選ぶようにぽつりぽつりとゆっくりと話し始めた。

「だって、あの部屋おかしなところだらけ」
「そうだな、たしかに意味がわからない部屋だ」
「そう、意味がわからない」

俺が口を挟むと、彼女は即座に同意した。

「意味がわからないってどういうことなんだろう」
「…暁?」
「意味がわからないっていうのは、意味がないってことと同じじゃないのかなって、思って…」

意味がわからないってことと意味がないってことは同じ?
だんだん彼女の言いたいことがわからなくなってきた。言葉を必死に選びとりながらも、彼女は続ける。今回はギノも口を挟まない。

「あの部屋に置いてあったものや、証拠らしきものに意味なんかないんだと思う」
「どういうことだよ?」

黙って聞いていた佐々山が堪えきれなくなったらしい。真剣な眼差しで彼女を見詰めていた。

「意味のない空間に、たったひとつだけ意味のあるものを入れる。そうすると、意味のないものさえ意味のあるものに見えてしまう」
「嬢ちゃん、それは…つまりその、なんだ、意味のあるものってのは」
「小倉めぐみ…あの空間で意味があるのは、小倉めぐみの死体だけ」


















「田村さゆりさん、ですね」
「は、はい」

ストレートの前髪を微かに揺らして、田村さゆりは頷いた。緩く巻かれた毛先が、また微かに跳ねる。きっと、朝からセットしてきたのだろう。私には無縁の行為だ。

私と一緒に聴取室に入ると、田村さゆりは膝を揃えて俯きがちに座った。手は膝の上。
マジックミラーの向こうからは宜野座伸元と狡噛慎也がじっと私達二人を見つめている頃だろう。
私は落ち着こうと小さく息を吐き、顔の筋肉を緩めてできるだけ怖くない顔を意識して目の前の田村さゆりに目をやった。

「…そんなに、怯えないでください。とって食おうというわけではありませんので」
「…」
「それとも潜在犯と聴取室に二人、というのは怖いですか」

図星だったのか、彼女は肩を跳ねさせると青い顔で私を見つめた。これが一般人の反応なのだ。

「ごめんなさい、私…」
「いいえ。それが正常です。でもわざわざ私を指名してくださったのには、何かわけがあるんでしょう」
「ええ…」

青ざめた田村さゆりの顔に幾らか余裕が戻ったらしく、落ち着いた様子で返事をする。まだ声は上擦っているが、冷静に会話はできるレベルだ。腕の端末を時計代わりに確認すると、彼女のサイコパスに異常は見られない。

「あの、私と彼女は幼馴染みだったんです。めぐちゃんも私も地方から出てきたので、親元を離れて不安だからお互い近くに住もうってことになって。シビュラもそれを許可しました」
「なるほど」
「めぐちゃんは本当に親孝行で。その日も、たしか両親に連絡を取っていたはずです。お母さんあんまり元気ないし、お金も大変みたいって言ってたから…」
「…家庭の事情を話すほど、貴女と小倉めぐみさんは親しかったんですね」
「ええ。よくどちらかの家で、二人で夜遅くまでパジャマパーティーをすることもありましたし。とても仲良しで、ベランダで行き来するくらいだったんです。あの日もそうでした。私がめぐちゃんの部屋に行く予定になっていたんですが…」

田村さゆりはそこで言葉を切り、口をぱくぱくしたあと、また俯いた。
確認すると、少しだけサイコパスの数値が上昇している。どうすべきか少し考えていると、聴取の際につける小型のイヤフォンから思考性音声で慎也さんの声が聞こえた。

『続けろ』
「なら、最初の証言と違いますね。夜中にたまたま目が覚めたから、と…おっしゃってましたが」
「はい。ごめんなさい、嘘をついて。…私何か、罪に問われたりとか、するんでしょうか」

びくびくとしながら、田村さゆりは恐る恐るといった様子で私の目を覗き込んできた。
私はゆっくり首を振った。

「私にはなんとも。ただ、私はあなたが知っているこの事件に関する内容を尋ねているだけです。…あなたもそのつもりで私を選ばれたのでは?」
「ええ、ええ」
「…なら、お話してくださいますね?」
「ええ、もちろん…」



















「人の心って、よく、わからない」
「…」

彼女の薄ぼんやりしたつぶやきに、何か声をかけることは出来なかった。
ソファーに腰かけて、俺は黙り込んでいた。彼女も俺もスーツ姿のままで、テーブルを挟んで向かい合うように座っていた。
彼女の部屋は相変わらず何もない。

田村さゆりの証言、或いは自白によってこの奇妙な事件は幕を下ろした。

小倉めぐみは自殺をしたのだ。

遺書もあった。
自分の部屋に田村さゆりを招く約束をした小倉めぐみは、遺書を書き、自殺をした。拳銃を使って。そんなことも露知らぬ田村さゆりが、いつものようにベランダの隙間を通って彼女の部屋を訪ねると、彼女の遺体をキッチンで発見し、遺書もすぐに見つけた。
遺書には
『私には生きている意味も価値もない。私は透明人間のような存在です。私は、私であるはずなのに、私ではないのです。私はこの世にいてはならない人間なのです』
と書かれていたらしい。どう考えても普通の人間の行動ではない。
ところが、小倉めぐみのサイコパスの記録を見ても何一つ異常がない。
自殺をした日の色相を見ても濁るどころかまっさらなパウダブルー。数値も安定値をマークしていた。

異常がないことが、異常なのだ。

しかし田村さゆりはそんなことを気にもとめず、とにかく彼女の自殺を隠蔽した。
部屋が不自然に荒れていたのはそのためだ。田村さゆりがそんなことをした理由はただひとつだ。自殺では保険金が下りないが、他殺や事故なら多額の保険金がおりる。そうすれば、金に苦しんでいた小倉めぐみの家族は救われる。

「何がそんなに不服だったのかな」
「…」
「サイコパスが濁らないで生きていけるなんて、すごいのに」

暁は無表情に宙を見ていた。田村さゆりから真相を聞いてから、彼女はずっとこの調子だ。
何か言うべきなのだろう、だが俺は彼女に返すべき言葉がなんなのか、わからなくなっていた。

ただひとつ、不可解なことがある。
小倉めぐみが拳銃をどこで手にいれたのかが、さっぱりわからないのだ。

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