「貴方が雑賀さんですか?」
「…あ…ああ。狡噛から聞いてるよ。とにかく入れ」

狡噛に言われるまま電車を乗り替えて山奥まで来たのだが、当の本人はここにいない。先に行けと言われたので来ただけのことだ。
バスは一時間に一本あればいい方で、朝一番にセーフハウスを発ったのに着いたのは昼前だった。どんな山奥に住んでるんだこのジジイと悪態をつきたくなったが、そこは堪える。

雑賀教授(大学の教授だったらしい)は大きな一軒家の前で私を出迎えると、すぐに招き入れてくれた。お邪魔します、と私も申し訳程度の挨拶をして一歩家に踏み入れる。それにしてもさっきの間は何だったんだろう?私の顔を見て少し驚いたような表情をしていたのは気のせいではないはずだ。

「ん?」
「どうかしましたか」
「ナイフだな、そのジーンズの右ポケット」
「え、なんで」
「趣味の悪いスペツナズか?」
「エスパーですか、貴方」
「狡噛から何も聞いてないのか。観察力と論理的思考だよ」
「心理学?」
「そんなところだ」

思わず声が上ずったが、彼は私に警戒するような様子も見せずにすたすたと部屋にあがる。私は少し眉をひそめた。初対面のはずなのに、心を全部見透かされてるみたいだ。

案内されるがままに着いた部屋は書斎のような場所だった。私が辺りを見回すと、雑賀教授はコーヒーをいれるから適当に座っていてくれと言うとすぐに退室してしまった。
仕方なくそばのソファーに腰かける。
正直、状況がよくわかっていない。何故私がここへ来たのか。一体何が始まるのか。

「本を読むのか」
「ええ、昔のものが好きで」
「ほう。例えば?」

いつの間に戻ってきたのか、雑賀教授はマグカップを二つもって扉のそばに佇んでいた。私が本棚を眺めていたのを見ていたらしい。

「…"アンドロイドは電気羊の夢を見るか?"」
「ディックか。なら"高い城の男"は?」
「読んでません。時間がなくて。SFが好きってわけでもないんで」
「だが電気羊は読んだのか。物好きだな」
「あれは映画にもなっていたでしょう」
「だが、原作の方が好き?」
「ええ、まあ。だいぶ内容が違いましたし」

雑賀教授は少し笑うとテーブルにマグを置き、彼も私の向かいにある一人掛け用のソファーに腰を下ろした。

「それで、君の名前は?」
「あ…申し遅れました、東雲暁と言います」
「東雲…ああ…道理で」

雑賀教授は妙に納得したような顔つきになると、眼鏡を押し上げて頷いた。一体何なんだろう、この人。

「狡噛が君を先に寄越した理由はこれか。あるいは……いや、今はそんなことどうでもいい。君と狡噛がどういう状況下にあるのかは大体わかってる。その上で、少し昔話でもしようか」

雑賀教授は手を組むと、何か考えるようにして俯いた。遠い所を見ているようだ。
私は一口だけマグに口をつけてコーヒーを飲むと、またそれをテーブルに置いて耳を傾けた。

「昔、まだシビュラシステムが導入されて間もない頃の話だ。当時はまだ大学制度が残っていて、俺も大学生をやってた。そこでとある女性と知り合ったんだ。俺の後輩だ。学部は違ったんだが、彼女はちょっとした有名人でね。なんというか、変わり者だった。頭は良いんだが、ネジが何本か抜けてる」

雑賀教授の目は、どこか懐かしむように揺れていた。

「彼女は生物工学が好きで、よく植物やマウスの遺伝子実験なんかをやってたんだ。俺は心理学系だったから、その観点からよく研究や実験なんかのアドバイスをしていた。好奇心旺盛な奴でね。一度決めたら言うことをきかないし、一度始めたら二、三日くらい寝ないで研究してる。あんまり無茶苦茶やるから、差し入れを持っていったり無理矢理寝かせたりした」
「…すごい研究者ですね」
「ああ。あれは一種の研究オタクなんだろうな。彼女は遺伝子工学に夢中だった。卒論も遺伝子工学に関するマニアックな内容を纏めていたな。あれは俺も読ませてもらったんだがさすがに全く意味がわからなかった。そうは言っても厚生省の研究室に適正判定Aが出たくらいだから相当のものだろう」

雑賀教授はマグを手に取ると、コーヒーの水面をじっと眺める。

「それで、その人は厚生省の研究員に?」
「ああ。大学を卒業してすぐにその研究室に配属になったらしい。嬉しそうだった。まあいつも嬉しそうな顔してたが、そのときは本当に嬉しそうだったな。それから俺も院に通っていた。その後はしばらく彼女と連絡は途絶えていてな。まあ特別付き合いが長いわけでもないし、自然消滅ってやつだ。ところが、院に入って半年くらい経った夜中だったな。突然彼女から電話が掛かってきた」
「突然、ですか」
「ああ。すごく取り乱した様子だった。困っていて、どうしたらいいかわからないと言うんだ。子供が泣いてる、すぐに来てくれと電話で言われた。とにかく来てほしい、助けてと。俺は彼女がいつの間にか結婚して子供まで生んでいたのかと驚いた。住所を教えられたから一先ず彼女の家に向かった」

ごくり、と私は唾を飲み込んだ。

「すぐに家に着くと、彼女は困ったような顔をして赤ん坊を抱き抱えていた。あやしても泣き止まないとか言われたな。久しぶりの再会がそれだった。あいつらしいといえばらしいが…」
「それで、赤ちゃんは?」
「腹が減ってたんだ。ミルク飲ませてやったらすぐに大人しくなったよ。彼女はそれを見てすごく驚いていた。それからいろいろ事情を聞いたんだ。結婚してたのかとか、子供生んだのかとか、他にも色々。だが彼女は結婚してもいなかったし、子供を生んだわけでもなかった」
「どういうことですか?」
「彼女はその時もずっと研究員として働いていた。そこで彼女は、ただの好奇心から自分の卵子と幹細胞を取り出して、培養機で人間を作り出した」
「…え…?」
「公表されてはいないが女同士は子供作れる時代だ、だから彼女は文字通り、自分の子供を作ったんだ。そして育てた」

意味がわからない。
私は開いた口が塞がらなかった。聞く限りではその女性はただの研究オタクを通り越して、異常だ。ただの好奇心で自分の子供を作った、なんて。

「その子は」
「俺も詳しいことは知らない。その後すぐに帰ってまた連絡が来なくなったし、数年後に彼女の家を訪ねてももぬけの殻だった。ただ、それからしばらくしてまた連絡がきた。13年前だ。その時の内容がこれだよ」

雑賀教授がポケットから古いタイプの端末を取り出して私に渡した。震える手でなんとか受けとる。
雑賀教授の鋭い視線を感じるが、私は顔をあげることが出来なかった。

「聞いてごらん。出られなかったんだが、留守電にメッセージが入っていた。その女の肉声だ」

この男が何を言わんとしているのか、私にはなんとなくわかった。それでいて何も言うことが出来なかった。拒絶も、承諾もできない。
ただ促されるまま、通話のアイコンをタップして端末を耳に当てる。

『もしもし…雑賀くん?』















「お邪魔します」

俺が雑賀教授の家に足を踏み入れると、雑賀教授は少し複雑そうな顔をしていた。

「暁はもう着いてますか」
「ああ、今は客間で寝かせてる。気が動転してたぞ。狡噛、お前…」
「やっぱり東雲博士の娘でしたか」
「…止せ、昔の話は」

雑賀教授は眼鏡を押し上げると、少し困ったように目を伏せた。
俺が暁を先に雑賀教授の家に行かせた理由は二つ。一つは彼女の身の安全のため。サイコパスがクリアなあいつは俺と行動するより一人で行動する方が怪しまれずに済む。二つ目は雑賀教授と二人で話をさせるためだ。その場に俺はいない方がいいというのはなんとなく感じていた。

「"昔の女"の間違いじゃないですか」
「狡噛、あまり目上の人間をからかうもんじゃない」
「すみません」

からかっているつもりはなかったんだが、雑賀教授はそう受け止めたらしい。客間に通されて部屋に入ると、簡易ベッドの上でタオルケットにくるまって眠っている暁が見えた。深く眠っているらしく、ぴくりとも動かない。

「なんでお前、東雲のこと知ってたんだ?」
「監視官だった頃、公安局のデータベースを閲覧してたら偶然見つけたんですよ。厚生省の前身組織と開発研究者リストに名前だけ載ってたんです。一番最後の開発チームのリーダーだったんで記憶してたんですよ」
「それで、もしやと思って俺と会わせたわけか。大当たりだよ、ほんとにお前は食えない奴だな」
「でも俺はこの件には首を突っ込まないつもりなので、詳細は聞きません。親子の問題です。暁が自分の口で俺に話したら、また別ですが」
「最もだな。なら俺も何も話さない。東雲のためにもな」

近寄って頬を撫でると微かに睫毛が揺れた。伸びてきた前髪が瞼を擽る。退けてやると、いつもの寝顔の彼女の顔がはっきり見えた。セーフハウスにいたときよりは顔色が少し良くなったようにも見える。そっと瞼に口づける。

「若いってのはいいね。見ようによっちゃ駆け落ちにも見えるぞ、お二人さん」
「駆け落ち……あながち間違ってないかもしれない」
「物好きだな、お前も。東雲の娘は厄介だぞ。厄介を通り越してもうバカだな、純然たるバカだ」
「大丈夫です、俺の方が厄介ですから。それにこいつは俺と生きて俺と死ぬ覚悟が出来てます。そんなことを好きな女に強いる俺も、どうしようもないバカなんです」

俺の言葉に雑賀教授は呆れたように少し笑うと、しばらくバカ二人でゆっくりしてろと言って客間から出ていった。寝ろということなのだろう。
俺はまた彼女に向き直ると、顔を覗き込んだ。起きないように、そっと触れるだけのキスを落とす。

「…ごめんな」

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -