廃棄区画の程近くにあるそれは、一見粗末なプレハブ小屋のようにも見える。狡噛が鍵を開けて中に入ると、私もそれに続いた。セーフハウスは何年も放置されていたせいで埃がたまっていたが、セーフハウスとしての機能は失っていなかった。
本棚や簡易なソファーやベッド、机もある。大きくない冷蔵庫や小さなキッチンもあった。私が辺りを見回していると、狡噛がヘルメットを脱いで年老いたソファーに置いた。

「これ…」

サイドボードの上に置かれた写真に思わず目がいく。若い頃のおいちゃんと、彼の腕の中で楽しそうに笑う黒髪の子供。絶対、これは宜野だ。
思わず表情筋が緩む。こんなふうに笑える子だったんだ…。
それと同時に、少し切ない気持ちが胸を掠めた。
私は母親に16年会っていない。
父親とも20のときに面会したきりで感動の再会というわけでもないし、たいした会話をしたわけでもない。
宜野は、父親が潜在犯だと言われ辛い思いをしていたのだと昔おいちゃんに聞いた。私の家族もそうだったのかもしれない。辛かったのは私だけじゃなくて、私の家族も辛かったのかもしれない。でも、私は潜在犯じゃなかったのだ。この世界の勝手で悪人のように仕立て上げられて、この世界の都合で生かされてきた。
いつもそんな風に考えてしまう。
だから槙島は私に興味を持ち、私は槙島という人間に心惹かれたのかもしれない。彼も私と同じ異質の人間だ。異質の人間だから私は排除され、彼は無視されて生きてきた。
私と槙島は一種の"寂しさ"に似た感情を共有していたのだと思う。
でも、今の私では彼の心の奥底まで理解することはできない。いや、厳密には理解している。ただ彼の"底無しの寂しさ"以外の感情を共有することはできない。

「…ねえ」
「なんだ」
「これから、どうする」

狡噛は机の引き出しを開けて、中から何か取り出した。リボルバー式の拳銃だ。そう言えば昔の警官や刑事は護身用に実弾が入った拳銃を持ってたんだっけ?保管状況が良かったらしく、少し手入れをすればこの拳銃もまた使えそうだ。自動拳銃の方が弾込めの時間も短縮できてリロードも速いが、贅沢は言っていられない。置いてくれているだけ有り難いのだ。

「考えよう。槙島の行き先に心当たりは?」
「ない。本来なら私はもう槙島に殺されてるはずだから今後のことは何も聞いてない」
「"本来なら"?」
「利害の一致ってやつだよ。それ以外のことは協力しないって最初に話してたから」
「…そうか」
「でも気が変わったみたい」

私の言葉に少し考えるような素振りをすると、狡噛は椅子に座り、油の小瓶を取り出した。拳銃の手入れをするらしい。リボルバータイプは私も使ったことがない(槙島から貰ったものは全て自動拳銃だった)ので、黙っていることにした。
することもないのでキッチンを覗いてみると、いつのものかわからないコーヒー豆が置いてあった。…さすがにこれを使う勇気はない。小さなヤカンを発見したので、中を軽く洗い(そんなに汚れていなかった)、水をいれてガスコンロの火にかけた。
狡噛の部屋から拝借したインスタントコーヒーをいれよう。外は冷えていたし、何か温かいものが飲みたい。

「コーヒーでいい?っていうかインスタントコーヒーしかないんだけど」
「ああ、助かる」

狡噛は少し疲れたように笑った。

局長が狡噛を殺そうとした。それは狡噛が"局長(シビュラシステム)"の脅威と見なされたからだろう。あれは藤間個人の意思ではなく、妹達の総意と考えていいと思う。シビュラシステムになった子達は、シビュラシステムに反感を抱くものを排除し、秘密を知ろうとするものを消そうとしている。彼女達は自らがシビュラシステムであることを誇りに思っている。だからこそ、彼女達はこんなことをしたのだ。
私はシビュラを壊す気はない。
私は愚かな人間だ。周りの大切な人が────それは一係のみんなであったり、突き詰めれれば狡噛だけであったり────生きてくれてさえいれば、他人はどうでもいい。本気でそう思っている。シビュラを壊すと、そのバランスが崩れる。それは避けたい。そんなエゴのために生きているのだ。
だから私は槙島の犯罪を止めたいとか、狡噛の力になりたいとかそんな素晴らしい考えは残念ながらこれっぽっちも持っていない。

でも、私の好きな狡噛慎也という男が、槙島聖護という犯罪者を殺したいと言っている。法では彼を裁けない。だから俺の手を汚して殺すと、そう言っている。そして、その決心は揺らぐことはない。

もう一度言うと、私は狡噛が大切だ。後の人間はどうでもいい。だから彼のために私は何でもする。私には、もうそうすることでしか生きる価値が見出だせない。
狡噛のためにならないなら、生きていても死んでいるのと変わらない。ただ朱ちゃんが私をまた捕まえてくれるらしいから、その時ドミネーターがエリミネーターに切り替わったら潔く死ぬつもりだ。きっと、切り替わることはないだろうけど。

「…どうした」

椅子に座っている狡噛に、後ろから抱きついた。彼の首に腕を回すと、狡噛が振り返らずに私に手を伸ばして頭を撫でてくれる。

「ごめん」
「…何が」
「私が、槙島を殺しておけば良かった」

そうすれば、彼はこんなことにならなかった。公安局をやめることもなかったし、槙島を殺すこともせずにすむ。ノナタワーの最上階で朱ちゃんが槙島を逮捕したときに、私がヘルメットであの男を殴り殺してしまえば良かったのだ。

「ごめん」

がぶ、と彼の首筋に歯を立ててみた。私の頭を撫でていた狡噛の手が一瞬止まるが、また何事もなかったかのように優しく撫で付ける。

「お前は悪くない」
「嘘つき」
「…」
「本当は怒ってたでしょ。ねえ、私のクローンのことどこで知ったの?誰が話した?言え」

歯形がついた首筋を舐めると、狡噛の息が詰まった。何だか今日の私は変だ。唾液で濡れたそこを舌でなぞると、腕を掴まれた。

「端末」
「え?」
「世田谷の繁華街だ。女がヘルメットの男に公衆の面前で殴り殺された事件の現場でたった一人、あの現場に違和感を抱いて通報した人間がいた。お前だろ?」
「…うん」
「現場の近くに画面の割れた端末が落ちてた。志恩に解析させたらデータが出てきたんだ」
「…どこまで知ってるの」
「どこまでって」
「話して」

少し強い口調で言うと、彼は困ったような顔をして私を見上げた。

「どうした?」
「なにが」
「…」
「あ…ごめん…その…」

そこではたと自分がむきになっていることに気づいた。いや、どちらかと言えば不安や焦りに似ている。何故私はこんなに焦っているのだろう。彼と二人になった瞬間、不安が背中を這うように襲いかかってきた。槙島を殺すことに罪悪感はない。たしかに、短い間だが世話になった仲ではある。でもそれだけだ。なら、何故私はこんなに焦っているのだろう?

「…俺はお前を嫌いにならないよ」

私が黙りこむと、狡噛の優しい声音が耳元で聞こえた。しがみつくように抱きついていた私の腕はいつの間にかほどかれ、彼の手が椅子にもたれる私の頬に触れる。

「同情もしない。例えお前にどんな過去があろうとも、お前はお前だ」
「…気持ち悪いとは思わないの」
「思わないな」
「どうして?!私、私いっぱいいるんだよ!?細胞とか取り出していじくり回されてさ…犯罪係数だって全然上がんないし、気持ち悪いでしょ……化け物だよ、こんなの」

思わず狡噛から距離を取った。後ずさりながら自分の肩を抱く。
そうか、私自分が気持ち悪いんだ。今まさに槙島を殺そうと思っているのに、私のサイコパスはいつでもクリアカラー。狡噛はもう危険域まで濁っているのに、私は濁らない。それって冷静に考えるとすごく怖い。今まで他のことに必死であまり気にしていなかったけれど。

自分で自分が、怖い。そんな怖い自分を大好きな人に拒絶されるのは、もっと怖い。

「怖い…」

ぺたりと床に座り込むと、狡噛が私の肩にジャケットを掛けた。びくりとして見上げると、今度は辛そうな顔をした彼が私をそっと抱き止める。

「俺は怖くない」
「…」
「お前は普通の人間だ。何もおかしくない。他人と少し違う体験をしただけだ。…そんなことで、俺はお前を嫌いになったりしない」
「でも」

「ずっと一緒にいよう」
















「…」

バルタザールの遍歴は、まだ読めずにいる。
単純に読む暇がない、探す時間がないというのも読んでいない理由のひとつだが、それだけが理由の全てを締めているわけではない。
彼女が知っていて、僕が知らない本があった。それを彼女が僕に薦めた。名作だ、と。
だがこれは、読んではいけない気がする。否、読みたくないのだ。
この本を読んでしまうと、僕の中にある彼女の存在が崩れてしまうような気がした。直感は大切にするべきだ。特に僕のような人間は。

一口紅茶を啜る。次の計画の算段はおおよそついていた。
今頃、狡噛と彼女は公安から逃げ出して僕を探しているだろう。藤間幸三郎は僕が殺したが、おそらく禾生の体はスペアがあるはずだ。彼女の妹達が禾生となり、指揮をとっていると考えるのが妥当だ。あのごみくず達の能力も知れているだろうが。
だが彼女達も己がシビュラであることに誇りを持っている。
きっと公安の内部で何か仕掛けているはずだ。

読まずになんとなくぺらぺらと捲っていた本を閉じた。同時に額に手を当てて目を閉じる。少し頭が熱い、ような気がする。彼女のことを考えすぎてしまったらしい。オーバーヒートというには少し大袈裟だが、まあ似たようなものだ。

「知りたいことを知り尽くして、やりたいことをやり尽くしたら…」

私をどうするつもり?

どうもしないよ。面倒だから殺そうとは思っていたけど、今さら君を殺すのは惜しい。惜しいが、君を殺したときにこの世界がどうなるのかには少し興味がある。
だがそれは、彼女の望む結末ではないのかもしれない。東雲さんが望む結末であっても、暁が望む結末ではない。なら、僕はどうすべきか。
彼女は狡噛慎也を選んだ。あの時、ほんの一瞬だけ胸の奥でちりちりと何かが焼け焦げたような感覚があった。それと不快感。
彼女は自分の意思で狡噛と共に在ることを決意した。狡噛もまた、形振り構わず僕を殺すことを決意している。
僕にとってもまた、決断の時がきたのだ。

「飽きることのない玩具か…それは一体、誰にとっての玩具なのかな」

サイドテーブルに置いてあった紙切れを手に取る。何年も前のものであるそれは、少し褪せた色合いの便箋だ。僕に宛てられたものではない。

「…決めた」
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