あの日と変わらず人のいない畑のそばを歩いていると、随分と久しい人物に出くわした。
彼女はまだ小さい子供の手を引いてゆっくりと歩いていた。子供が彼女に何か一生懸命話しかけている。彼女はそれに相づちを打ちながら、柔らかい笑みを浮かべていた。
だが俺の姿をみつけるとぴたりと足を止めた。子供はまだ何か言っていたが、彼女は気にもとめないような様子だった。

「久しぶりだな」

なんと声をかければよいのかわからず、とりあえずの挨拶を投げる。声が上擦った。
そこで母親しか見えていなかった子供が初めて俺に気づいたらしく、キョトンとした顔で俺を見上げていた。

「…ええ」
「おじさん、だれ?」

母親の声に被せるように子供が俺に疑問を投げ掛けた。

「さあ、誰でしょうね」

俺が口を開く前に彼女は息子を抱き上げて、俺の姿が見えないようにと肩に顔を乗させて背中を撫でた。子供は完全に俺に背を向けている状態だ。

「…あまり、似てないな」

俺がその小さな背中を眺めながら呟くと、彼女は目を伏せた。
髪の色は目の前の彼女と同じ色だ。目鼻立ちも整ってはいるが、完全に母親似だろう。

「そうかもね。…最近歩けるようになったばかりなの。まだ小さいでしょ。…父親には似ないでほしいな」

子供は彼女の腕の中で大人しくしていた。俺と彼女の間に流れる微妙な空気を感じ取ったのだとしたら、後々大物になるだろう。

「いつ戻ってたの?国外逃亡してるんじゃなかったっけ」

ぽんぽんと子供の背を撫でながら、彼女は俺を爪先から頭までじっくりと見つめた。

「それはお前もだろ」
「そうなんだけど…お墓参りにね」

人気のないこの北陸の地では公安の目が届かないため、辺りを気にする必要がない。日本では人目を憚らなければならない立場にある俺は、ここで彼女と再会できたことを少し嬉しくも感じていた。

「俺もそんなところだ」

あの日、ここで別れてから今日まで彼女と会えなかったせいで、会話がぎくしゃくする。以前の俺は彼女とどんな風に話していただろうか?
会話が途切れて暫しの沈黙が流れる。
そこで彼女の腕の中で大人しくしていた息子がもぞもぞと動いて彼女の腕から降りてしまった。そして俺を見上げるようにして、ふらふらと頼りない小さな足でなんとか立ったのだ。

「おじさんも、おはかまいり?」
「そうだよ」
「へえ…!おじさんも、ショウゴおじさんしってる?」
「…ああ」

一瞬息が詰まった。純粋な目で俺を見上げる子供の視線が、俺の心臓に突き刺さる。
それを誤魔化すためか、はたまた愛着がわいたのか、俺は子供を抱き上げた。
彼女は何も言わずに、ただその様子を黙って見ていた。

「さっきね、ママとおはなをわたしたんだ!それとせんこう!ショウゴおじさんはふるいものがすきなんだよ!」
「よく知ってるな」
「おじさんもおはなわたす?」
「おじさんはいいよ、そんな仲良しじゃなかったし」
「えー…」

子供は嫌がることもなく、ぺらぺらと興味のあることだけを喋りながら俺の腕の中にいた。
俺はというと、腕の中の命の重みに少し驚いていた。こんなに軽かったのか。

「二人で、少し散歩しても構わないか?」

振り向いて声をかけると、幾分か柔らかい表情になった彼女が静かに頷いた。そしてそのまま丘へ向かって歩き始めた。
彼女の伸びた髪が風に揺れる。そこで待っているという意味なのだろう。

「そういや、お前の名前はなんていうんだ」
「聖護。ショウゴおじさんとおなじなまえなんだよ」
「……そうか」
「おじさんのなまえは?」
「狡噛慎也」
「へー、こうみみさん」
「狡噛」
「こうがみ?」
「そうだ」
「ややこしいからしんやおじさんがいい」
「そうしてくれ。…聖護、ママのことは好きか?」
「だいすきだよ!ママはいつもねるまえにえほんをよんでくれて、ママのりょーりはおいしーし、あのね、おじさんもママのごはんたべて!きのうはぐらたんをつくってくれたんだ」

俺に肩車をされてキャッキャと騒ぐ聖護は、嬉しそうに俺の頭の上に置いた手をバタバタさせた。

「わかった、わかった。…それならいいんだ」
「おじさんとママはともだち?」
「……まあ、そうだな。聖護は友達いるか?」
「いるよ。いまのおうちのとなりに、りかこちゃんておんなのこがいるんだ。にほんじんなんだよ!あのね、りかこちゃんはまだ4さいなのにほしのおうじさまがよめるんだよ」
「それはすごいな」
「だからぼくもはやくよめるようになりたい、ほしのおうじさま」
「読めるさ。聖護は賢いからな」
「ほんと?」

嬉しそうな声が頭上から聞こえる。手を回して聖護を地面に降ろすと、少しつまらなさそうな顔をして俺を見上げていた。
彼女の姿はもう見えなくなっている。

「聖護。おじさんからお前に頼みがある」
「なに?」
「ママを、守ってやってくれ」
「へ?」
「ママは優しくて強い人だが、一人で抱え込んで無理をする悪い癖がある。今のお前におじさんがそこまで頼むのは、お前がママの息子で、一人の男だと見込んでいるからだ」

聖護は黙って俺を見上げていた。
言っている意味は理解しきれていないかもしれないが、真剣な眼差しで俺の話を聞いている。やはりこの子は聡明だ。

「わかってくれるか?」
「うん、わかった」

聖護は頷くと、屈託のない笑顔で笑ってみせた。そして彼は俺に様々なことを話してくれた。
今の暮らし、母親との生活、読書のこと、食事のこと、お隣のりかこちゃんのこと。聖護の話が尽きることはなかった。

「ねえ、おじさん。ぼくもたのみがあるよ」
「何だ?」
「もしぼくがママをまもれなかったら、おじさんはママをまもってくれる?」
「……」
「それとね、ぼくパパにあってみたいんだ。あったことないの。パパにあいたい。おじさんはぼくのパパしってる?」

もう、口が開かなかった。
黙りこむ俺に何かを悟ったのか、聖護はそれまで好き勝手喋っていた口をつぐんで、今度はごめんなさいと呟いた。

「ママにパパのこときいたら、こまってたから」
「…」
「りかこちゃんにはパパもママもいるんだ。なのに、ぼくにはどうしてパパいないのかな」

しょんぼりとした様子で、聖護は俯いた。

「お前のパパは、いるよ」
「え?」
「ただ会えない場所にいるから、会えないだけだ。お前のパパはいつもお前とママのことを思ってる」
「パパにあったことあるの、おじさん?」
「…ああ」
「どんなひとなの?」
「聖護」

聖護の質問に言い淀んでいると、背後で声が聞こえた。
彼女だった。

「遅いから心配した」
「…悪い」
「ううん。構わないけど。…聖護、もう帰ろう。おじさんは忙しいの」

俺の目を一度も見ずに彼女は聖護の手をとって、先程のように抱き上げた。

「…これからどうするつもりだ」

背を向けて歩き出そうとした彼女に問を投げた。風で揺れる長い髪が、彼女の首に絡み付いていた。

「何も決めてないよ」
「…そうか」
「でもね、まともに生きていきたいとは思ってる。この子のためにもね」

彼女は振り向いて、微笑んだ。

「それじゃ、さよなら」














人生の目的に対する疑問は無限といってよいほどに、しばしば提出されてきているが、ついぞ満足できるような答えが与えられたことはない。
また、そのような答えはおそらく許されないものなのだろう。

フロイト

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