私があの麦畑で聞いたのは二発の銃声。

その後、復旧途中だったはずのシビュラシステムは何故か突然ダウンし、規模の小さなパニックが起こった。東京の各地でエリア内ストレスレベルが上昇したものの、シビュラシステムの再復旧と共に人々の精神は再び正常なものへと回復していったのだ。

『槙島聖護と東雲暁の身柄確保については大変遺憾な結果となりました』
「これで私は用済みってこと?」
『常守朱の能力評価については下方修正を余儀なくされます。が、それによってあなたの存在価値がマイナスに転じるわけではありません。むしろシビュラシステムの運営上、あなたは依然として特出した価値を持つ個人です』
「どういう意味よ?」

シビュラシステムの中枢に呼び出された私は、目の前の脳のボックスを睨み付けた。あの後、結局槙島は狡噛さんによって殺害され、暁さんも姿を消した。鑑識の結果、槙島の血液とは別に暁さんのサンプルと一致する血液も検出されたらしいが、彼女の生死は未だに不明だ。
これには唐之杜さんもお手上げ、といった様子だった。

『あなたの健康且つ強靭なサイコパスと明晰な頭脳判断力は、来たるべき新たな時代の市民に示す指標として十分な理想形といえます。そしてあなたはシビュラシステムに対し完全に相反する感情的反感と理論的評価を抱いており、今尚その葛藤は継続している。そんなあなたを懐柔する手法が確立できたなら我々は社会の統制を次の段階に進める上で貴重なサンプルデータを獲得できることでしょう』
「何を企んでいるの?」
『目下のところ、世論の情勢を鑑みてシビュラシステムの実体は完全に秘匿されています。短期的戦略としての隠蔽工作は現状ではまだ容易ですが、長期的視野に立った場合、これは決して望ましい方針ではない。何れ我々は偽らざる姿を公のものとするべきなのです。全ての市民がシビュラの正体を認識し、了解した上で、我々による統制を享受するようになる環境を整えること─────この課題の達成は将来の人類社会により盤石な安定と繁栄をもたらすことでしょう。我々が引き続きあなたの動向を観察し、解析することは未来の市民を懐柔し、順応させる方法論を構築する貴重な手掛かりとなるのです』
「そんなにうまくいくと思ってるの?」

私が吐き捨てるように言うと、彼女達は得意気に言葉を続けた。

『機密保守を脅かす兆候がない限り、あなたの生命と行動の自由は保障されるでしょう。協力的態度を期待します。自己保存の欲求に従えば、あなたに選択の余地はないはず』
「そうね、犬死にはごめんだし。今の世の中がシビュラ抜きでは成り立たないのも、事実だし」
『あなたの順法精神に基づく判断は信頼に値します』

ぐっと拳を握り締めた。悔しい。でも、今はどうにもできないのだ。私には、何も。

「尊くあるべきはずの法を、何よりも貶めることは何だかわかってる?…それはね、守るに値しない法律を作り、運用することよ。人間を甘く見ないことね…!私たちはいつだってよりよい社会を目指してる。いつか誰かがこの部屋の電源を落としにやってくるわ!きっと、新しい道を見つけてみせる……シビュラシステム、あなたたちに未来なんてないのよ!」

捨て台詞のようにいい放つと、私は踵を返して部屋から出た。出入口の所に立っていた暁さんそっくりのサイボーグがにやにやと笑いながら出迎えたが、素知らぬふりをして横を通りすぎる。

「…オリジナルが死んだよ」

背後から聞こえたその声にピタリと足を止めた。絶対に振り向かないと決めていたのに、私はすんなりと振り向いてしまった。悪魔の囁きのようなそれに眉をひそめる。ついていた松葉杖を床に押し付けるようにして支えた。

「厳密に言うと死んでないのかもだけど」
「何なの、それ?」
「だから、彼女はこの国から消えたの」
「え?」
「シビュラシステムが復旧途中にダウンしたのは多分そのせい。でもお陰でこっちも解放されて案外いい気分だよ。お互いを縛っていた枷が外れたっていうか、晴れて自由の身っていうか」

彼女はぐんと伸びをすると、私に背を向けてゆっくりと室内に向かって歩き始めた。

「あ、でも見つけたら捕まえてね。今度は殺してもいいよ。あの人もう犯罪者だからさ」

軽く手をあげ中枢の部屋へ入ると、ドアは閉まった。恐らくロックもかけられたのだろう。もう中には入れないのだ。私も黙って扉に背を向けた。

『常守朱。抗いなさい。苦悩しなさい。我々に進化をもたらす糧として』


















「やあ、久しぶり。今日は報告に来た。身の振り方を決めたんでね」

墓に向かって話しかけるのは、一体いつぶりだろうか。母親が死んだとき以来かもしれない。
墓前に置かれたセーフハウスの鍵を見つけて、なんともいたたまれない気持ちになった。狡噛もここに来ていたのだ。あいつらしいといえばあいつらしい。

「犯罪係数140までいったよ。もう回復の見込みはない。だが隔離施設で腐っているのも性に合わなくてね…。結局、古巣に戻ることにした。違う道を進めとあんたは言ったが、ご期待には添えなかったわけだ。…どこまでも親不孝な息子だよ」

屈んで語りかけるように口を開く。俺も丸くなったもんだ、かつての自分が今の自分を見たら何と言うだろう。
口では罵りながらも、今の俺の穏やかさに嫉妬くらいはするのではないだろうか。

どちらにせよ、親父にしてみれば俺はろくでなしのバカ息子であることには変わりない。ただ、今の俺が親父と面と向かって話せば、昔よりもう少しましな会話が出来ただろう。
そして今の俺も昔の俺も、この下で眠っている親父には一人の息子なのだ。そういう意味では…いや、これ以上の戯言はよそう。

「でもな、不思議と後悔はしてないんだ。刑事なんてろくなもんじゃない。それでも誰かが引き受けなきゃならない仕事だ。そうだろ?親父…」

立ち上がって、静かに墓石を見下ろした。
もう、何も迷うことはない。強いて言えば、彼女のことが気掛かりだが、ついぞそのことも親父に話すことはなかった。
これは俺の胸のうちにしまっておく大切な思いなのだ。

初恋は叶わないと昔佐々山が言っていたが、本当にその通りになった。
だがこれも後悔はしていない。彼女は彼女の道を選び、俺も俺の道を選んだだけのこと。互いの道がけして交わることがないということを俺は薄々理解していた。だからこれは最初からどうにもならない恋だったのだ。いや、幼すぎて恋にすらなっていなかった。一方的な葛藤。彼女は真っ直ぐ過ぎて、俺にはついていくことが出来なかった。
色々と思うことは山ほどある。女々しいが、今も彼女のことを忘れられずにいるのはきっと彼女を本気で大切に思ったからなのだろう。だが、もう彼女は戻ってこない。きっと分厚いガラスの向こうにいるのだ。それが遠くて俺には見えないが、彼女は確かにそこにいる。
胸の奥にしまい込んでしまおう。それが正しいのかわからないが、答えは自ずと見つかるはずだ。

「手間をかけさせてすまない」
「いえ、執行官の外出に同伴するのは服務規定ですから」

外へ戻ると、常守監視官は車にもたれて俺を待っていた。執行官の外出には監視官が同伴しなければならない。これは規則のひとつに過ぎない。
俺達は車に乗り込むと、高速に乗ってそのままノナタワーへ向かう。午後からは彼女も俺も仕事なのだ。

「ああして墓があるだけ縢よりはマシだ。二係の調査、打ち切られたんだろ?」
「ええ…」
「きっと縢はもうこの世にいない。上層部はその確証を掴んだ上で、発表せずにうやむやにしてる」
「…狡噛さんはどこにいるんでしょうね」

常守監視官の色のない呟きに俺は一瞬黙ったが、すぐに奴の顔を思い出して微笑を浮かべた。

「あれだけ獰猛な猟犬から首輪が外れたら、それはもう狼と変わらない。むしろ野生に戻った分、のびのびとやってるかもしれん」
「そんな気楽なものでしょうか」
「執行官だった頃のあいつが気楽にやっていたわけでもないだろう。しぶとくて狡猾で諦めの悪い男だった。どんな過酷な状況だろうと、あいつはきっと切り抜ける。むしろ心配なのは常守監視官、あなたの方だ」
「えっ…私?相変わらず心配性ですね、宜野座さんは」
「過去よりも未来に目を向けよう。新任の監視官、明日には着任するんだろう」
「異例の人事ですよね。未成年の登用なんて」
「…俺たちにも責任の一端はある」

俺が監視官から執行官に堕ち、親父は殉職。縢は行方不明…ということになっているが恐らくもうこの世にはいない。そして狡噛は逃走。

一係は人数不足で新たに他の執行官も配属されたが、監視官は常守監視官ただ一人。それはさすがに無理があると感じたのか、シビュラは高校を卒業してすぐの未成年の学生に監視官の適性をだした。前代未聞だが、彼女しか適任者はいないらしい。

「ところで、つまんないこと聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「メガネ、伊達だったんですか」
「自分の顔が嫌いでね。特に目元が…だがもうどうでもよくなったんだ、今は」

















「で、何か私達に言うことはないのかな」

彼女は逃げも隠れもせずに私達の目の前に立っていた。
腕の中にいるのは小さな赤ん坊。我々の身に覚えのない生命だ。私たちは口々に意見を述べてその赤ん坊を推測した。だが推測回路だけでは真実に辿り着けない。

彼女は凛としていた。
彼女は無表情だったが、赤ん坊を抱き締める手だけはひどく優しいものだとわかる。

「何もないわ」

赤ん坊は静かに眠っていた。小さな呼吸音が聞こえる。まさか、彼女がこの世に産み落とした命なのだろうか。
だとしたら誰との子供なのだ、この赤ん坊は。狡噛慎也か、あるいは槙島聖護か。彼女が身体をゆるすとしたら、その男二人くらいしかいないだろう。この子供は、一体何者なのだ。
狡噛慎也との子供なら恐らく排除しなければならない。槙島聖護との子供なら保護の余地もあるが、私達と一緒になってもらう必要がある。免罪体質の可能性が高いからだ。
サイコパスと遺伝の関係が立証されるのは時間の問題。その赤ん坊が槙島の遺伝子を持つなら、私達は喉から手が出るほどに欲しい。

「でもほら、私とても親切だから。あなた達にひとつ忠告しに来たの」

彼女は口許に笑みを浮かべると、私達を一瞥して赤ん坊を抱いたまま優しくその子をあやし始めた。緩やかなその速度に、赤ん坊は気持ち良さそうに欠伸をする。

「いつかきっと、この子が自分の力でここへ来て、この部屋の電源を落とす日が来るわ」
「…」
「それまでせいぜい足掻くのね、シビュラシステム。私の掌で弄ばれているのは狡噛慎也でなければ常守朱でもない。他の人間でもない。あなた達だってことを理解しておいた方がいい」
「なら、私達はその赤ん坊を今ここで殺す」

彼女は動揺する様子もなく、むしろ小さく声をあげて笑った。

「それは無理」
「どうして?」
「だってこの子は、私の子だから」

彼女はそう言うと、今まで見たこともないような良い笑顔をつくりあげ、私達に背を向けた。かつかつと彼女の足音が響く。
赤ん坊はまだ眠っているらしく、泣き声ひとつ聞こえない。

「…君のような女が母親になれるとでも思っているのか」

挑発のつもりで投げ掛けた言葉は、静かに空気の一部になって溶けて消えた。その代わり、彼女が振り向いて一度だけ私達を見つめたのがわかった。

あの目は、母親のそれではない。

それ以上言ったら殺す、と脅されているような重たい雰囲気を醸し出していた。目だけで人を殺せる、とはよく言ったもので。
そしてそれに気付いたのか、それともただ目が覚めたのか。赤ん坊がぐすぐすと泣き始めた。

「…よしよし」

ぐずり始めた赤ん坊をあやしながら、彼女は部屋から出ていった。その横顔からは、先ほどの恐ろしさは感じられない。
やはり彼女も異常人格者なのだ。狂気を内に秘めている。そしてその矛先はいつだって私達なのだ。

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