「助けて…いや!」

私が槙島の指示通りにマップをみて移動すると、また先程の人質の女の子の声が聞こえた。

このフロアは別のフロアへのパイプが繋がっていたようで、私が歩いている通路自体が橋のようになっていた。すぐ下を覗けば、階下が見える。
その私の立っている通路の上に、また同じような荷物運搬用と見られる手狭な通路が通っていた。こちらからすればちょうど見上げる位置にある。

そこに、槙島と朱ちゃんの友達はいた。
朱ちゃんの友達を押さえ付けてにこやかに微笑む槙島。彼は怯える人質の手首と鉄の柵を手錠で繋いだ。

「早かったね」
「別に。…どこへ行くの?」
「チェ・グソンの連絡が入り次第、撤退するよ。こっちまで上ってきてくれるかい」
「止まりなさい!公安局です!武器を捨てて投降しなさい!」
『犯罪係数79 執行対象ではありません トリガーをロックします』

と、そこで私の背後から朱ちゃんがドミネーターを携えて走ってきた。
私が振り向かずにハンドアップするが、槙島は彼女を一瞥するだけだった。
ドミネーターの銃口は、槙島聖護に向けられているというのに。

「あっ… 朱…」
「待っててゆき!今助けるから!」
「ああ、君の顔は知っている。公安局の常守朱監視官だね」
「あなたがゆきを巻き込んだのね…よくも…!」

私が振り向いて朱ちゃんを見ると、彼女は嫌悪感を顕にして槙島を睨み付けていた。そしてその嫌悪の対象には私も含まれている。

朱ちゃんはじりじりと一歩詰め寄った。私は眉を少し動かし、目を細めた。

「僕は槙島聖護」
「っ…槙島…!」
「なるほど、そこで反応するのか。さすが公安局だ。尻尾ぐらいはつかまれていたというわけか。…暁、なかなかやるじゃないか」

にやりと笑いながら、槙島が私に一瞥をくれた。その視線を背中で感じながら、私は両手をまたポケットに突っ込んで朱ちゃんの目を見つめる。

彼女の目に映っているのは、恐怖と動揺。そしてそれに負けないくらいの強い意志。

「あなたには複数の犯罪について重大な嫌疑が掛かっています。そして東雲暁さん、貴女にも脱走の容疑が掛かっており、公安局から指名手配されています。お二人に、市民憲章に基づいて同行を要請します」
「話があるならこの場で済まそう。お互い多忙な身の上だろ?」

ああ、そっか。私脱走したからもう容疑者なんだっけ?
確かに十六年間過ごした古巣を捨てたのだから、私は大したことをしたものだ。

「逃げられると思ってるの?」
「貴女は応援が来るまでの時間稼ぎのためにも、ここで私達との会話を弾ませるべきじゃないの?」

強気に出る朱ちゃんに私が声をかけると、そこで彼女はぐっと喉を鳴らした。
このまま生き急がれると朱ちゃんが身を落とすことになる。それは避けたい。何だかんだ言っても私はこの少女のような純粋な新しい飼い主を嫌いにはなれなかったのだ。

「君が言う"複数の犯罪"とはどれのことだろう?御堂将剛?それとも王陵璃華子?」
「やっぱり…!」

槙島は機嫌をよくしたらしく、珍しいことに声を上げて笑った。
手にもった巨大な剃刀が揺れる。

「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動したときのみ価値を持つと思っている。だから様々な人間に秘めたる意思を問いただし、その行いを観察してきた」
「いい気にならないで!あなたはただの犯罪者よ!」
「そもそも何をもって犯罪と定義するんだ?君が手にしたその銃。ドミネーターを司るビュラシステムが決めるのか?」
『犯罪係数アンダー50 執行対象ではありません トリガーをロックします』
「あっ…!?」

朱ちゃんが驚いたように声をあげた。ドミネーターは思考性音声のため持ち手である本人にしか声は聞こえないが、執行できなかったのだろう。
朱ちゃんは少し焦った様子でドミネーターを見つめた。

「サイマティックスキャンで読み取った生体力場を解析し、人の心の在り方を解き明かす。科学の英知はついに魂の秘密を暴くに至り、この社会は激変した。だけど、その判定には我々人間の意思が介在しない。私たちはいったい何を基準に善と悪をより分けていたんだろう?ねぇ、朱ちゃん」
「暁…さ…ん…」

朱ちゃんが怯えた様子で私を見つめた。
それがとても悲しかった。

「正義って、何?」

がたん、と彼女の手からドミネーターが転がり落ちる。床を滑って、私の足元付近まで転がってきたそれを手に取るが、もちろん赤いエラーランプが点っていて今の私には使えない。

公安局から脱走の容疑で指名手配されている私は、既にドミネーターの使用許可を剥奪されているはずだ。恐らく局長がシビュラシステムに直接データを書き加えて私の使用許諾を取り消したのだろう。逆に言えば、シビュラシステムをハッキングすれば、私はまたドミネーターを使えるようになるのかもしれないが。

何も話さないドミネーターをみて、なんだかつまらなく感じた。いつもはあの音声があんなに耳障りだったのに、いざ聞こえなくなると少し寂しいというのはどういうことだろう。

「シビュラが正義と言うなら、それで私たちを殺してみろ」

私がドミネーターを彼女に投げると、彼女はなんとか受け取って首を横に振った。
彼女に私たちを執行することはできない。シビュラシステムが、私たちを善人と見なしたからだ。

「できないなら、力ずくで殺せ」

機械は機械である限り必ず弱点がある。完璧なシステムなんて人間が作る限り有り得ない。何故ならそこに製作者側の主観が入るからだ。
シビュラシステムも例によってその機械の一つだ。
弱点があるのだ、シビュラシステムにも。

「僕は人の魂の輝きが見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。だが己の意思を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、果たして価値はあるんだろうか?せっかくだ、君にも問うてみるとしよう。刑事としての判断と行動を」
「あっ…ああっ!」
「なっ…何をするつもり!?」

朱ちゃんの友達の髪を剃刀で弄んでいた槙島は、そばにおいていた先程の猟銃(泉宮寺が所有していた散弾銃)を私たちのいる階下へ投げた。
がしゃんと音をたてて、それは私と朱ちゃんのちょうど間に落ちる。

そして槙島は再び朱ちゃんの友達を押さえつけると彼女の喉元に剃刀の刃の部分を添えた。

「今からこの女、船原ゆきを殺してみせよう。君の目の前で」
『犯罪係数48 執行対象ではありません トリガーをロックします』
「止めたければそんな役に立たない鉄くずではなく、今あげた銃を拾って使うといい。引き金を引けば弾は出る」

そう言って槙島が朱ちゃんに指し示したのは先程の猟銃だった。
ドミネーターは起動しないから、槙島を殺したいなら今の朱ちゃんにはこれしかないだろう。
だが本人はひどく狼狽していた。

そして、ようやくここで気づいた。
この問いはなにも朱ちゃんだけに向けられたものではない。私への問いでもあるのだと。

「で…できるわけない。だってあなたは…」
「善良な市民だから?シビュラがそう判定したから?」
『犯罪係数32 執行対象ではありません トリガーをロックします』
「ど…どうして!?…暁さんのときも…」

朱ちゃんはドミネーターの数値を見て焦っているようだった。
おそらく彼の犯罪係数が100を越えないのだろう。今まさに、人を殺そうとしているのにも関わらず。
それは今の私も然り。

「彼女は少し特別だからね。コツさえつかめばコントロールは可能なんだよ。最も、僕の方は僕自身も謎だけど」
「…っ…」
「子供のころから不思議だったよ。僕のサイコパスはいつだって真っ白だった。ただの一度も曇ったことがない。この体のありとあらゆる生体反応が僕という人間を肯定しているんだろうね。これは健やかにして善なる人の行いだと…」

このままにしておいたら、この男は恐らく船原ゆきとかいう女の子を殺すだろう。私は別に構わないが、朱ちゃんが気の毒だ。
自分の力が足りなかったあまり無関係な自分の友人が自分の目の前で殺される。いくら彼女でもサイコパスは濁ってしまうに違いない。

「やめて!」
「助けて!朱!」
「ゆき…!」
「君たちでは僕の罪をはかれない。僕を裁ける者がいるとしたら、それは……自らの意思で人殺しになれる者だけさ」

そう言って槙島は微笑みながら私を見た。
私がそうだと言いたいのか。それとも今回のお目当ての狡噛のことをさしているのかは、わからないけれど。

朱ちゃんは猟銃を拾うと、片手でなんとか持ち上げた。もう片方の手にはドミネーター。撃てやしないのに。

「今すぐゆきを解放しなさい!さもないと…!」
「さもなければ僕は殺される。君の殺意によってね。それはそれで尊い結末だ」

槙島は船原ゆきから少し離れると、手を広げた。

「ほら、人さし指に命の重みを感じるだろう?シビュラの傀儡でいる限りは決して味わえない。それが決断と意思の重さだよ」

猟銃を握る朱ちゃんの手が震えている。

『犯罪係数アンダー20 執行対象ではありません トリガーをロックします』
「デカルトは"決断ができない人間は欲望が大き過ぎるか母性が足りないのだ"と言った。どうした?ちゃんと構えないと弾が外れるよ。…さあ、殺す気で狙え」

槙島は目を閉じた。
撃ってみろ、ということらしい。
結論から言えば、彼女は撃てないだろう。

私の予想通り、彼女は引き金を引いたが、弾は二発ともあらぬ方向へ弾き出されただけだった。

「あっ…朱」
「残念だ…とても残念だよ、常守朱監視官」
「嫌っ…助けて!朱!」

朱ちゃんの表情は見えなかった。
どうしていいかわからないのだろう。彼女は声を出すこともできない。
このまま、友達が殺される様子を見ることしかできない。

「君は僕を失望させた。だから罰を与えなくてはならない」

槙島は、がっかりしたような表情で朱ちゃんを見下ろすと、いよいよ船原ゆきの喉元に剃刀を添えた。

「己の無力さを後悔し、絶望するがいい」
『犯罪係数0 執行対象ではありません トリガーを』
「やめ…!」

槙島が船原ゆきの頸動脈を破壊しようとしたその瞬間、彼の動きが止まった。
いや、正確に言うと止めたのだ。

私が。

「…暁?」

私の手に握られている小型のハンドガンが、槙島に向かって火を吹いた。引き金を引いたのはもちろん私だ。
眉間を狙って撃ったが少しそれてしまい、頬をかする程度に終わった。その証拠に彼は少し驚いた顔をして自身の右頬に触れる。手についた赤い血を見て、彼はほくそ笑んだ。

「ははは…はは……ははははははははははは!!!」

槙島は声を出して楽しそうに笑う。
理解できていない朱ちゃんは、私と槙島を見つめていた。

そりゃそうだろう。
裏切ったかつての仲間が事件の黒幕と手を組んでいるのにも関わらず、よりにもよって黒幕を殺そうとした。
なのに撃たれた黒幕は嬉しくて爆笑している。頭のおかしい話にしか聞こえないだろうが、この男はそういう男なのだ。
それにしてもここまで爆笑している槙島は初めて見た。私が殺す気で彼を撃ったのにも本人とて気づいているはずなのに。
いや、だからこそ嬉しいのかもしれない。

「これだよ暁…君はやはり面白い。僕が求めていたのは他でもないそれなんだよ」

落ち着きを取り戻して無邪気な笑顔を浮かべる槙島に、やれやれと息を吐きそうになった。

「だが、彼女は僕を失望させた。罪には罰だ。君はまだ僕を止めるのか?」
「…いや」

それはできない。
今の私ではただの時間稼ぎにしかならなかったということだ。

「この場に救世主なんかいないよ。己の無力さに絶望しろ、常守朱」
「…待って…そんな」
「朱、助けて!あか」

私はそっと目を閉じた。
逃避ではない。これは、これから死に行く者へのせめてもの敬意。その直後に、船原ゆきと常守朱の叫び声が響き渡った。

槙島聖護が織り成す響きは、なんと残酷な旋律なのだろう。
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