私にとってあの檻の中は優しくて心地いい地獄だった。
でも、所詮は地獄。
私が施設に収容されたのは仕方ない。だって自殺を謀ったのだから。
でも執行官になって、まだ起きていない犯罪を銃じゃない銃で裁くとき、胸の奥になんとも言えない痼のようなものを感じるのだ。

これは本当に、正義か?

30年程前に導入されたこのシステムは、サイマティックスキャンによって計測した生体力場から人間の精神状態を科学的に分析し、得られるデータをサイコパスとして数値化、そこから導かれた深層心理や職業適性を提供する。
つまりは包括的生涯福祉支援システムなわけだ。
厚生省が管轄していて、運用理念は
「成しうる者が為すべきを為す。これこそシビュラが人類にもたらした恩寵である」
多くの市民は、シビュラシステムを肯定的に受け入れている。
だが果たして本当にそうだろうか?
シビュラシステムが導入されてから新たな犯罪は増え、サイコパスが濁れば差別される。

人間はある意味では生きやすくなっただろう。
自分の夢を持つのではなく、自分が為すべきことはシビュラシステムが決めてくれる。それがシビュラシステムの恩恵にあたる。

だが。

人間が夢を持つことをやめた時点で、人間はこれ以上成長しないのではないだろうか。
そして今、この世界からシビュラシステムを取り上げたら、人間は────────。

「人間、という言葉を不思議に思ったことはないかい?」
「…」
「人の間、と書くんだ。不思議だよね。人だけでもいいのに、我々は人間、と書きたがる」
「…」
「人は誰かと関わることで生きていけるんだそうだ。一人では生きていけないから、誰かと関わりを持つ」
「…」
「かつての職場もそうだったようだよ。シビュラシステムがなかった頃は、様々な種類の人間が様々な職についた。適性なんて無かったも同然さ。結局はあうあわないに関係なく、自らが自らの意志で為すべきを為していた。皮肉だと思わないかい?人間は持ち前のコミュニケーション能力で、意志さえあればどんな仕事も大抵はやってのけた」

つ、と槙島の冷たい指が私の頤に触れて、離れた。冷たい。

「僕ら人間が求めていたのは精神の安寧。心の拠り所。ストレスのない社会。……そんなものは人と関わる限り、なくなることは有り得ない」
「シビュラシステムは、正義ではない」
「そうだ。それは君が一番よくわかっているだろ?君が僕に教えてくれたことだ」

とある部屋。
私から離れると、向かいの席について微笑んでいる男。槙島聖護。
私は何故かこの男に強い興味を持たれている。

槙島は赤い背表紙の本を開くと、また何か読みふけり始めた。
この男はさっきからずっとこれだ。本を読んでいたかと思えば、何かを思い出したかのように私に話しかける。
私はすることがないので、ただ静かにその様子を眺めていた。観察していてわかるのは、初めて会ったときよりも、電話をした時よりも、この男はどこか機嫌が良いように見える。
そして、ページを捲るときに薬指が動く癖があることもわかった。

「…僕の顔に何かついてる?」

じっと槙島の端整な顔を眺めていると、また声をかけられた。
見るところがないので仕方なくこの男を見ているだけなのだが。

「嬉しそうだな、と思って」
「…わかるんだ?」
「貴方は、いつも退屈そうだったから」
「そうかな。確かに面白いことがないときは退屈だね」
「…」
「でも今は君がいるから楽しいよ。とてもね」

にこりと微笑む槙島の顔を、私は無表情で見つめる。

「もう来てたのか」

ギィ、とドアが開く音がして、目だけでそちらを見ると、ここの主人である物好きな老人が立っていた。
ばたん、と扉が閉まり、私と槙島の向こうにある席につくと、箱を取り出した。

「遅かったですね」
「ああ、先程まで取材でね。…そちらの女性は?」
「僕のお気に入りです」
「ほう…君が噂の」

老人───泉宮寺豊久─── はサイボーグ独特の目付きで私の顔を見る。緑色の瞳孔が、開いたり閉じたりして私を認識している。

「公安の犬か」
「ご存知でしたか」
「いや、もちろんさ。彼女の恩恵を私も奉ってるのでね」
「そうでしたね」
「……?」

私の恩恵、とはどういう意味だろう。
眉をひそめると、これ以上の深追いはさせまいとでも言いたげに、泉宮寺は話題を変えた。

「彼女も次の狩りに参加させるのかい?」
「ええ、その予定ですが」

何か問題でも?と槙島は首を少し傾げて微笑んだ。
泉宮寺は少し考えるように槙島を見てから頷くと、猟銃を取り出して手入れを始めた。と、今度は私のほうへ向き直る。

「君の名前はたしか……東雲暁さんだったね」
「…」
「最も狡猾でいくら狩り殺しても絶滅の心配がない動物は何だと思う?」
「人間」
「簡単過ぎたな」

私が即答すると、泉宮寺は納得のいく答えを得られて少し嬉しそうではあった。

「今はもう…普通の狩猟は許可が下りない。君と槙島君には感謝しているんだよ」

泉宮寺は一度猟銃を置くと、先程の小さな箱を開けた。
中から白いパイプの先端部分が覗く。

「象牙…ではありませんね」

槙島も興味深げにそれを見ていた。
私は嫌な予感がして目をそらす。

「まだ見せたことはなかったな。このパイプはマウスピース以外は王陵 璃華子の骨だよ」
「ほう」

私は別のことに意識を集中させることにした。
たしかに一係でも王陵璃華子の遺体を見つけることは出来なかった。やはり殺害されていたのか。

「こうして触っていると、心が若さを取り戻すんだよ。恐怖に震え上がる獲物たちの魂が私に活力を与えてくれる。…肉体の老いは克服した。君のお陰でね」

泉宮寺はパイプをふかしながら歪な笑みを浮かべた。
どういう、意味だろう。
私はこの男に何かした記憶はない。会ったのも今日が初めてだ。

「…」
「覚えていないのか。可哀想に…。いや、実に君の運命とは数奇なものだ」
「どういう意味」
「…不遜なシビュラは君にとうとう真実を伝えなかったということか。君の妹たちのことを思うと、気の毒でならないね」

がた、と私は立ち上がった。それは動揺と焦り。理解できないことへの恐怖。
この男は何を言っている?
何の話をしているの?
どうして、私の知らないことを知っているの?

「私には妹なんていない」
「ああ、その通り。君と同じ母親から生まれたのは弟君だけだそうだね。だが今や兄弟姉妹の定義は、同じ母親の子宮で育ったことを前提とするものではない。母体あってこその血縁関係という概念は私の中では疾うに終わっている」

何を言ってる?
この男は、何を知っている?

「この話はまた今度にしよう。東雲暁、君は実に優秀な猟犬だったということは存じている。では、肉体の老いを克服した後に、私が求めるのは何だと思う?」

これ以上問い詰めても、今はきっと何も答えてくれないだろう。
私は逸る気持ちをおさえて、冷静な解答を導き出す他なかった。

「…心」
「そういうことだ。生命とは他の命を犠牲にすることで、健やかに保たれる。だが体の若さばかりを求め心を養うすべを見失えば、当然生きながらに死んでいる亡者たちばかりが増えていく。…愚かしい限りではないか」

もう一度パイプを吸って煙を吐くと、泉宮寺は宙を見つめた。

「スリルによる活力。それは死と隣り合わせの危険な報酬ですな」
「そうとも。狩りの獲物は手ごわいほどにみずみずしい若さが手に入る」
「そこまで仰せなら、次は飛び切りの獲物をご用意できるかと」

槙島は私の目をじっと見つめていた。何か探りを入れられているような感じだ。

「ほう」
「公安局執行官」
「公安局…!」

まさか。

「名前は…」













「狡噛さん、まだ見つかりませんね…」
「ああ」

暁が姿を消してから二日経ったが、何も進展はない。
ギノもこれには頭を抱えているようだった。
周辺の捜索や監視カメラのデータの解析もあまり役には立たない。

「…どうして…こんなことに…失踪する直前まで、普通に話してたのに」
「今は感情論はやめだ、監視官。…いくら暁でもこのビルから一人で脱け出すのは不可能だ。協力者がいる。そいつの足取りさえ掴めれば、一歩近づけるんだが」
「執行官は連絡手段としても、局内メールか電話しか使えません。外部の人間と関わりを持つこともできないですし…」
「…マキシマは桜霜学園で柴田という教師の経歴を改竄して成り代わっていた。局内の人間の経歴を改竄して暁と接触を謀れても不思議じゃない」
「やっぱり、マキシマが…」
「…おそらくな」

タブレットを操作しながら、パソコンのディスプレイを眺める。
暁はいなくなる直前に、俺の捜査を手伝いたいと言ってマキシマの写真を見たとき、酷く動揺していた。
本人は佐々山のことを思い出したと言っていたが、本当はそうではないだろう。
暁は、マキシマに会ったことがあるのかもしれない。姿を見たことがあるのなら、あの写真をみて動揺したのも理解できる。
ならばいつ接触したのか。
少なくとも最近のはずだ。

「ん?…これ……待ってください、マキシマの声かもしれない」

六合塚がヘッドフォンを耳に当てたままタブレットを操作しながら、調整を始めた。
何か発見したらしい。

「コミュフィールドでアバターが乗っ取られた事件のときに、クラブのエグゾゼに突入したわよね。あのとき暁ってどこにいたの」
「あー、確か護送車の側だったんじゃね?バックアップ担当してたと思うけど……俺通信で暁に私語は慎みなさい!って怒られて…」
「…その時、あいつ一人だったのか?」

うん、と縢が頷く。

「…暁が通信を切り忘れてたみたいで、たまたまログが少しだけ残ってた」
「再生してくれ」
「了解」

『失礼しました、ちょっと──合い──の電話で』
『いえ。というか、お時間大丈夫ですか?』
『ええ。なん──うか、もう少し貴女とお話──いんです。ご迷──すか?』
『そんな、とんでもない』

そこで音声は切れた。
ノイズが入っていて聞き取りにくいが、マキシマの声と似ている。

「六合塚、ノイズ修正できるか」
「最大限に調整してこれです。これ以上は無理ですね。ですが、王陵璃華子との音声記録と周波数や音域モデルをあわせて声紋認証してみると、ほぼ一致します。マキシマの声とみて間違いないかと」
「…この時初めて東雲はマキシマと接触したのか?」

ギノの疑問には六合塚も口をつぐんだ。

「多分そうだろうねぇ。暁の話し方は敬語、向こうも敬語。初めて会った者同士のよそよそしさがあるな」
「だがどうやって?東雲が話しかけた様子ではなさそうだな。マキシマが東雲と話したいと言っている。護送車の側は民間人は立ち入り禁止だ。どうやって接触をした」
「民間人ではないと証明し、暁が気を許すようなやり方、何の違和感もなく彼女と接する方法…」
「お邪魔〜、わぁ、みんなピリピリしてるねぇ」

呑気な声音でオフィスに入ってきた金髪の女が、何かのディスクを片手でヒラヒラさせる。

「弥生、これ読み込んで」
「ん」
「唐之杜、何か見つかったのか」
「んー、局員のデータ全部洗ってみたんだけど、怪しいとこは何もなくてさ。だから残ってるだけしかないけど、退職者の個人データファイル調べたら、ビンゴ」

ふふ、と少し寂しそうに笑う唐之杜のそばで、六合塚がひたすらタブレットを操作する。

「もう退職して死んでるけどね……中嶋真昼って男が、今も実在してここで働いてることになってたのよ」

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