がたり、と俺はソファーから立った。今、横に槙島がいたような気がしたのだ。
マグからこぼれた珈琲が机を汚す。背筋に冷たいものが走った。動揺する俺に、追い討ちをかけるように今度はデバイスから通信が入る。

『夜分失礼する。狡噛慎也の番号で間違いなかったかな?』
「な…!」

槙島聖護、だと?

『今日、シビュラシステムの正体を知ったよ。あれは君が命懸けで守るほど価値のあるものではない。それだけは伝えておきたくてね』
「なんだと、」
『それと暁をちゃんと守ってくれよ。それこそ命懸けで。もたもたしていると殺されるぞ、彼女。…では、いずれまた』















「あー……」

なんもやる気でない…。

だらんとしてベッドに転がったまま、外に繋がるドアを眺める。拘置所ってこんなとこなんだな……。私、これからどうなるのかな。またあの施設みたいな牢獄に入れられて一生を過ごすのだろうか。この際それも悪くないかな、なんて思えてきた。
することもないので、ごろごろしていると、トントンと扉が二回ほどノックされる。不審に思ってドアの窓口を見つめると、左目の下に黒子のある女の人が私に小さく手を振った。

「青柳監視官…?」

そうだ、この人は確か二係の青柳さんじゃないか。
何度か共同捜査で一緒に仕事をしたから覚えている。大人で落ち着いた雰囲気のある、まさに監視官の鑑とでも言うべき人だ。以前お菓子をお裾分けしたら喜んでくれて、すごく嬉しかった。典型的なイイ人だ。

「は、はい」
「これじゃあほんとに犯罪者扱いね…宜野座監視官に頼まれて様子見に来たんだけど」
「え?」

宜野に?
私が首を傾げると、青柳監視官は扉のロックを解除して出てくるようにと指し示した。彼女に案内されて、そそくさと取調室に入る。

「ちょっと今おかしなことになっていてね。…刑事課は下手に動けないのよ。槙島聖護と貴女についてのことなんだけど」
「いいんですか、そんなこと私にぺらぺら話して」
「宜野座監視官に頭下げられちゃったからね。…私もちょっと思うところがあるし、今回だけ」

青柳さんは笑みを浮かべると、今度は声のトーンを少し落とした。

「簡単に言うと、公安局は槙島聖護と東雲暁への捜査権を失った。槙島と貴女に関する事件の取り調べは、厚生大臣が編成した特殊チームで行うことになった」
「…え…なんで?」
「特殊事例だから、だって」
「そんな」
「臭いわよね。私もそう思う。…ところがね、また大問題がおきたのよ。…今度は槙島に逃げられた」
「はあ?!」

私は思わず声を荒らげた。そこでしっ、と青柳さんが唇に人指し指を当てる。
逃げられた?!槙島に?!朱ちゃんが捕まえたのに…!どうして?彼もここの拘置所にいるんじゃなかったの?

「槙島を乗せた輸送機が墜落したの。そのとき逃げたみたい。…だから、一係は槙島をもう一度生きたまま見つけて逮捕するように任された。縢秀星執行官の捜索は、うちの二係に任せられたのよ」
「待ってください、どういうことですかそれ。秀星がいなくなったんですか?」
「聞いてないの?」

青柳さんは少し意外そうな顔をした。肘を机について手を組み、そこに顎を乗せて彼女は小さく息を吐く。

「あの暴動のどさくさに紛れて、逃亡したみたいなのよ」
「秀星が、逃亡?」

あの子が逃亡なんかするだろうか。
私が眉をひそめると、青柳さんは少し困ったような顔をした。

「そのことも聞こうと思ってきたの。ねえ、縢執行官が行きそうな場所に心当たりはない?」
「っ青柳さん…」
「わかってるわかってる。…一応形だけね。私も縢執行官が逃亡するとは考えにくいもの…どうしたものか…」

青柳さんは苦笑した。と、そこで彼女のデバイスに通信が入る。
二係の執行官かららしく、ごめんなさいねと言うと取調室から出て行こうとドアを開けた。
その姿を目で追うと、彼女はドアを閉める直前に唇を少しだけ動かして私に何か言う。その後、「逃げないでね」と念押しされて私も頷いた。

「犯罪の片棒、担がせちゃったんじゃないの?」

机の上に置かれた腕につけるタイプデバイスを見て、私も苦々しく笑った。それを腕にはつけず操作する。宜野も回りくどいことをするものだ。バレたら責任問題…いや、それどころかもっと酷いことになる可能性も十分に有り得る。

"逃げるなら、今よ"

言われなくてもとっとと逃げてやるわ。またクローンでもつくられて、シビュラシステムの一部にされるなんて真っ平ごめんだ。
志恩に通信を繋ぐと、彼女は驚く様子もなく応答した。

『あら、早かったわね』
「これ宜野の入れ知恵?局長にバレたらおしまいだよ、私達。どういうつもりなの?」
『まあそう喚きなさんなって。宜野座監視官がお父さんに相談したみたいよー』
「ああ…らしくないことすると思ったら…」

通信で志恩と話をしながら、取調室の机の下に置いてあったスーツに着替える。ご丁寧に私のお気に入りの革靴とスタンバトンまで。青柳監視官は気が回る人だ。
取調室の監視カメラは作動していないらしい。志恩が機能を一時的にクラッキングしてくれてるみたいだ。

『スーツのサイズどう?』
「悪くないかな。それと私、全然状況が把握できてないの。今拘置区域の第二取調室にいる。指示をちょうだい」
『うーん、…本部まで上がって来れる?分析室に来てほしいんだけど。搬入用エレベーターは今誰も使う気配ないから、それ乗って』
「了解」

取調室のドアを開けて外に出る。通路には誰もいなかった。
スキャナーが設置されているが、私はサイコパスがクリアなため全く反応しない。青柳さんが今回の作戦に乗ってくれた理由はこれか。これなら易々と拘置区域から本部まで行けるだろう。ただし、時間との勝負だ。早歩きで搬入用のエレベーターに向かう。

「ねえ」
『うん?』
「みんなは私のこと、どう思ってるかな。…裏切り者って思ってるかな」
『…思ってないわよ。それは慎也くんが言ってた。裏切り者なんて…そんなこと思ってたら、誰も暁をこんな風に助けようとはしない』
「…ほんと?」
『私が暁に嘘をついたことがある?』
「…少し前に、ノリツッコミのこと騎乗位って教えてくれたよねー?」
『あ〜、でもあれはあながち嘘じゃないでしょ』
「意味を狡噛に聞いて、すごく恥ずかしかったんだから」
『ごめんごめん〜』

冗談を言いながらエレベーターからおりる。
職員は皆復旧作業に終われていて、フロアには誰もいなかった。まっすぐ分析室に向かう。分析室のドアをの前に立つと、自動で開いた。

「状況は?」
「最悪ね。シュウくんと槙島のことは聞いた?」
「青柳監視官からね」
「なら早いわ。あたしら一係は槙島を生きたまま逮捕するように局長に命じられた」
「生きたまま……それは逮捕とは言わない。保護って言うの。局長に教えてあげてよ」
「その言葉、そっくりそのまま返す。全くねぇ、もう何が何だかさっぱり!慎也くんも使えないし?」

がしがしと頭をかくと、志恩は悩ましげに紫煙を吐いた。彼女らしくない仕草だ。私は革張りのソファーに足を組んで座り、モニターを眺める。

「狡噛に何かあったの?」
「本件には関わらせないって」
「それも局長命令?」

んー、と怠そうに志恩が頷く。藤間の奴、どうあっても槙島をシビュラシステムに取り込みたいってことか。脳のストックがきれかかってるのかもしれない。
私はここで一生監禁して飼い殺すつもりだったんだろう。私の脳をシビュラシステムに取り込むと、何か良くないことが起こるみたいだから。
私が思案していると、沈黙が暫く続く。数秒後、思いきったように志恩が明るい声を出した。

「聞いたよ、暁の話。ごめんね、さっき慎也くんが私と宜野座監視官と征陸さんを呼び出してね」
「…?」
「…量産型クローンのオリジナルモデル、だっけ」

思わず息が詰まった。何故狡噛がそんなことを知っていたんだろう。
志恩は灰皿にタバコをぐしゃぐしゃと押し付けて火を消すと、くるりと椅子を回転させてこちらに向き直った。立ち上がってゆっくりこちらに近づいてくると、宥めるように頭を撫でられる。

「辛かったね」

瞬間、目頭が熱くなり、突然込み上げてきたかのようにぼたぼたと涙がこぼれた。
肩の力が抜けて、俯いて涙を堪える。でも止まらない。私の意思に反して涙の粒はぼろぼろと膝に落ちて、用意してもらったパンツスーツに深い色のシミができた。

「し…おん…」
「今日くらい、いいのよ。誰も貴女を責めない」
「…っ…」
「泣いたっていいじゃない。だって女の子ってそんなに強くないよね。無理して一生懸命考えて頑張ったの、ちゃんとわかってるよ」














『コードK32に基づく特殊事例です。狡噛慎也執行官の身柄を拘束します』
「こんな小賢しい計略で出し抜けると思ったなら、舐められたものだな、私も」

公安局地下駐車場。
局長に不信感を抱いたギノの計らいで、二係の執行官と俺をトレードして捜査に協力させるということになったのだ。俺が二係の護送車に乗り込もうとすると、突然サイレンを鳴らしたドローンに包囲されてしまった。
そばには公安局局長である禾生があの鉄面皮で立っている。

「あんたがそこまで熱烈な俺のファンだったとは意外だよ、禾生局長」
「勘違いしないでほしいな。君がいると彼女が苦悶するから私は出てきただけだ」
「苦悶、か。そうさせてるのはあんたらだろう」

苦笑いで局長を睨むと、局長はほんの数秒だけ驚いたような顔で俺を見つめていたが、今度は呆れたような顔で睨み返される。
それでも今の俺は冷静だった。あの音声ファイルの内容が頭から離れないからだ。

「ここで減らず口を叩ける君の精神構造は、全く以って理解に苦しむな」
「局長!説明させて下さい、これは…」

ギノと常守が走り寄って来るが、局長は冷たい目でギノを見るばかりだ。二係の青柳監視官達も黙ってその様子を見守る。

「いいや、説明には及ばない。宜野座くん、ここは口を開く程墓穴を掘る局面では無いかね?個人の裁量に寄る判断も、必ずしも咎めるべきものとは限らない。…要は満足のいく結果さえ伴えば良いのだ。評価の基準はそれだけだ。だからこそ危険な賭けに打って出る際は、引き際の判断が重要になる。自らの不始末をどれだけ速やかに、断固たる態度で清算出来るか。……さて、宜野座監視官。君の監視下にある執行官が今、重大な背任を犯そうとしている訳だが…この場面にどう対処する?愚にもつかない弁明を並べ立てるより、もっと明晰で非の打ち所の無い決断力を示す事は出来るかな?」

局長が冷たい視線を俺に寄越した。ギノの手にはドミネーターが握られている。禾生壌宗が言わんとしていることは俺にも容易に想像できた。
ギノがドミネーターの銃口を俺に向ける。

『犯罪係数265 刑事課登録執行官 任意執行対象です』
「うん、結構。君は順当に自らの有用性を証明している。だが詰めの甘さも否めない…」

そう言って局長がギノの手に自らの手を添えた。その瞬間、ノンリーサルのパラライザーモードだったドミネーターが、リーサルのエリミネーターに切り替わる。
ああ、死ぬのか。ギノに撃たれて、俺は死ぬのか。
目を閉じる。だがやはり心拍は落ち着いていた。恐ろしいほどに。

「さぁ、宜野座くん。君の責任者としての采配を、情に流されない決断力を、私に見せてくれないか?」

目を閉じて静かに衝撃を待っていると、足に痛みが走った。
なんだ?エリミネーターなら一瞬で身体が弾け飛ぶはずだ。
目を開くと、常守が俺に照準をあわせているのが見えた。

「犯罪係数300以下の対象には、パラライザーモードが適用されます。宜野座さん、そのドミネーター壊れてるみたいです。すぐにメンテナンスに出した方が良いですよ」
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