「"真理はつねに迫害に打ち勝つという格言は、実際、あのほほえましい虚偽にすぎない"」
「自由論、ミルだな。"つまり、人から人へと口真似されて、ついには決まり文句になるが、あらゆる経験によって反駁されるあの虚偽である。歴史は、真理が迫害によって踏みにじられた実例に満ちている"」
「…何で知ってるの。気持ち悪い」
「はは、酷い言われようだ。…シビュラシステムのことだろ?」
「さあ」

正義の反対は悪ではなく、また別の正義なのだと以前狡噛は言っていた。何をもって正義とするのかわからない。そこには個人の主観がある。一人一人正義は違う。そんなものを定義付けるのは難しい。ああ、でもマイケル・サンデルの"これからの「正義」の話をしよう"、あれは面白かった。だけど、今の社会であれを読む物好きはいないだろうな。正義はシビュラただひとつになってしまったんだもの。
だから私は真理を求めた。真理もいつも一つだ。しかしそこには人の意思が介在しない事実だけが残っている。だから私は真理を求めた。その結果がこれだ。

「槙島は猫だね」
「猫?」
「それで、私は犬」
「ほう」
「私は人間に飼われているけれど、人間は貴方に飼われている」
「…笑えない暗喩だな」

槙島について地上90階の電波塔付近まで上ってきたはいいが、お目当てのラボはなかなか見つからない。一緒についてきた数人は既に配置につかせたが、私が気にしているものはまだどこにあるのかわからないのだ。

「今貴方と語り合う時間はなさそうだね」
「次の機会に」
「次があればいいんだけど」
「全くだ」

冗談めかすように笑う槙島をスルーして、非常用の階段を上る。非常用ドアを開けるとそこからは最上階フロアらしく、赤い床にホログラフとガラスの窓、奥には赤い階段が螺旋状に繋がっていた。ここより上は電波塔なのかもしれない。槙島に手を引かれて最上階の空間に立つと、ぞわりと背筋に震えが走った。

「ラボは地下なのかもしれないな。ここから上は…」
「…槙島、貴方どうやって私の妹をここから脱出させたの?」

私が気になっていたことを彼に問うと、数度瞬きしてから槙島は外の景色を静かに見つめた。

「…内通者がいたんだ」
「内通者?」
「ああ。ラボの場所はその人物しか知らない。だが数日前連絡がとれなくなった。…多分、妹達を僕らに流していたのに勘づかれたんだろう」
「…消されたの?」
「恐らくね」

もう少し上に行ってみるかいという彼の誘いに頷くと、今度は螺旋階段を上る。カンカンと金属独特の音が私のヒールとぶつかって響く。私の後ろを槙島がゆっくりと付いてきた。
すると、螺旋階段をぐるぐると上った先に赤い扉があった。ドアノブがついている、手動で開けるタイプの旧式の扉だ。鍵穴はついていないから、ノブを回して押せば開くのだろう。電子ロックがかかっている気配もない。

「…」

ごくり、と口にたまった唾液を飲みこむ。ドアノブに手をかける。だが、指が、手が、動かない。力が入らない。まるで開けてはならないと、扉に警告されているような気さえする。
真っ赤に塗り固められた鉄製の扉。測らなくても、分厚く重たい扉であることは容易に推測できる。扉は目の前にある。開ければいい。ただノブを回して押せばいい。わかってるのに。そんな簡単なこと、最初からわかっているのに。
焦れば焦るほど手は震える。怖い。何だろう、怖い。開けてはいけない、と私の頭の中でサイレンが鳴っている。開けてはいけない。見てはならない。ここから先に踏み込んではいけない。

「大丈夫」
「…!」

戸惑う私の耳に、聞き慣れた男の声が響く。槙島聖護は私の耳元に後ろから唇をよせて囁いた。彼の温もりを背中に感じる。ドアノブを握る私の手の上から、彼の手が重なった。背後から抱き抱えられるような姿勢だ。

「僕がいる」
「…っ」
「君には僕がいる。怖がらなくていい。…一緒にいこう」

手に力が込められる。彼の手が私の手の上からドアノブを回した。そのまま力を込められて、ゆっくりと重たい扉を押す。
ああ、開けてしまった。ギィ、と鉄扉独特の音を立てながら、それは私達の前に姿を現すのだ。

「これは…」














『槙島と暁は最上階の一番奥!非常階段の近く!その周辺には監視カメラがないから援護できない……!』
「そこまで分かりゃ上等だよ」

エレベーターからおりて奥の非常階段へ走る。常守には例のヘルメットを被せて彼女自身のサイコパスを計測できないように対処した。
階段を上っていると、踊り場のスペースで待機していたらしい槙島の仲間が銃で撃ってくる。

『犯罪係数24 執行対象ではありません』
「なんだとっ…!」

弾を避けるが常守は被弾したらしく足をおさえていた。俺が走ってどうにか殴るが相手も一般人とは違い体格のいい男だ。壁に叩きつけられるがどうにか殴り倒して階下に滑り落とす。

「監視官!」
「大丈夫…!でも何でドミネーターが…」
「迂闊だったぜ。ここには槙島と暁がいる。奴等のサイコパスがこいつらのヘルメットにコピーされているんだ」
「ヘルメット、かぶり損でしたね。止血したら後を追います。先に行ってください」
「でもあんたは…」
「槙島と暁さんを逃がさないで!これは命令です!」

常守の強い眼差しに頷くと、非常用扉を開けた。室内は薄暗い。だが人間の目で中の様子は視認できる。梯子を上りきると、まだいたらしい槙島の仲間がこちらに向かってきた。こいつもヘルメット常備者だ。

「っ!」

向かってくる相手をかわして銃を奪うと、それで胸元めがけてありったけの弾を打つ。
志恩の分析ではもう一人いるはずだ。俺が警戒をしていると、物陰からそいつが出てきた。

「やめなさい」

制止の声にヘルメットの男が少し戸惑った様子で動きを止める。
聞いたことのある女の声だ。もう長い間────あの地下で泉宮寺豊久になぶり殺されそうになってから────一度も聞いていない。一度も会っていない。会いたかった。ずっと会いたかった。

「武器を仕舞って。きかん坊の野良犬にはお仕置きをするわよ」

カン、カン、と鉄を踏みしめるような音がフロアに響く。黒いレースのワンピースを身に纏った彼女が、螺旋階段からゆっくりと降りてきた。
ヘルメットの男が手に持っていた電動ノコギリのようなものを起動させる。すると彼女はヘルメットの男に向かって走り、手に携えていたナイフで男の首を背後から斬った。
俺は動けなかった。バタリと倒れる男を見ると、彼女は俺の足元に落ちていたドミネーターを拾い上げ、倒れた男に向ける。

『ユーザー認証 東雲暁執行官 適正ユーザーです 犯罪係数18 執行対象ではありません』
「…ああ、そっか、私の犯罪係数コピーしてたんだっけ」

ちっと舌打ちをすると、彼女はドミネーターを俺に手渡す。手に持っていた血にまみれたナイフは床に放り投げられた。カランと無機質な音がして、やがてそれは非常口付近に落ちる。

「…久しぶりだね」
「お前、」
「言いたいことはいろいろあるだろうし聞く耳もあるけれど、狡噛と今不毛な話をする気はない」
「…いつもそうだな、お前は」
「ごめん」

どこか暗い表情で笑う彼女に、俺はたまらず手を伸ばした。
抵抗することもなく、暁は俺からの抱擁をただされるがままに受け入れる。血生臭いだろうに。久しぶりに抱き止めた彼女の感触に驚いた。こんなに小さかっただろうか?

「私を逮捕しないの?」
「…」
「槙島と私は行動を共にしていた。…私も犯罪者なんだよ。シビュラの正義に反する行いをした」

彼女のか細い声に唇を噛んだ。逮捕しなければならない。わかっている。だが、俺には。

彼女の白い腕がそっと俺の背中に回される。それだけのことでひどく安堵している俺がいた。これでは彼女に依存しているみたいだ。東雲暁という存在に盲目なまでに執着している自分に情けなくなった。

「…狡噛」
「…いっそ美しいね。男女の愛とはここまで清らかなものだったとは。約束と違うが、まあいいかな」

虫酸が走った。この声も知っている。螺旋階段の中腹に立つ白い男が俺と暁を静かに見下ろしていた。男の長い襟足が風に揺れる。抱き寄せていた暁を解放すると、彼女を背後に隠した。

「お前は狡噛慎也だ」
「お前は槙島聖護だ」

『犯罪係数0』

槙島にドミネーターの銃口を向けるがやはり数値は正常値だった。

「"正義は議論の種になるが力は非常にはっきりしている。そのため人は正義に力を与えることができなかった"」
「悪いな。俺は"誰かがパスカルを引用したら用心すべきだ"とかなり前に学んでいる」
「ははっ、そうくると思ってたよ。…オルテガだな。もしも君がパスカルを引用したら、やっぱり僕も同じ言葉を返しただろう」
「貴様と意見が合ったところで嬉しくはないな」
「彼女に読書をすすめたのは君かい?」
「…だったら何だ」

槙島は階段からゆっくりと緩慢な態度でおりると、俺に向き直った。

「いや…語り明かすのも楽しそうだが、生憎今僕は他の用件で忙しい」
「知ったことか。この場で殺してやる…!」
「刑事の言葉とは思えない。暁、君もそう思うだろ?」

からかうように槙島が俺の背後にいる暁に問いを投げる。
彼女は何も言わずに、俺の背中にそっと触れただけだった。それに気づいたのか槙島は困ったような笑みを作る。

「僕の所へはもう戻ってきてくれないのか」
「…知りたかったことは知れた。貴方とは利害の一致で手を組んでいただけ」
「へえ、利用されてたんだ」

わざとらしく槙島は肩を竦める。

「そんなに狡噛慎也が大切か」
「…大切よ」
「君は僕と外の世界に触れてもっと感銘を受けたんじゃなかったのか。僕の正義を理解したんじゃないのか」
「…正義なんてどうでもいい」

震えるような彼女の声に、俺も視線をそちらにやる。きゅっと俺のスーツを握りしめて、俯く彼女に胸が痛んだ。

「何度でも言う。知りたかったことは知れた。その情報でこの世界の秩序を壊そうなんて、考えてない。私は、自分の人生に狡噛慎也という男がいれば、それでいい」
「…!」
「後は何もいらない。狡噛さえいれば、私はこの世界の市民や潜在犯なんてどうでもいい。どうなろうと知ったことじゃない。知らないよ、他人のことなんて…勝手にしなさいよ…。この人がいて、私がいれば、それでいい!私はそれで幸せなの!」
「そんなのはただのエゴだ」

槙島が睨み付けるように俺を見る。いや、実際は俺の背後にいる暁を見ているのだろう。

「君が変わらない限り世界は変わらない」
「変わらなくていいよ…このまま、シビュラシステムの導きのままに生きる。それでいい」
「…」
「迷い犬はお家へ帰ったの。…もう二度と一人で檻から出ることはない」

槙島は一瞬目を見開いて心底驚いたような顔をしたが、すぐに俺を見ていつものあの余裕を含んだような表情に戻った。だが、その視線には僅かに苛立ちと嫉妬の念が籠っている。槙島本人は気づいていないようだが。
だが内心で俺はほっとしていた。今、暁は俺たちのもとへ帰ってきたと宣言したのだ。どんな形であれこいつは戻ってきた。言ってることはどうかと思うが、この際それにも目を瞑ろう。

「……また飼い犬に手を咬まれてしまったな」
「…お前に黒幕はいない。他の雑魚はお前に操られているだけだ。事件の真相はお前を殺した後でゆっくり調べればいい」
「…以前会ったとき、死にかけの君にとどめを刺すこともできたんだ。…見逃してあげた恩義を感じてくれないのか?」
「せいぜい後悔するこったな…!」
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