「私は暁だけど」

何言ってるの?頭大丈夫?
つんつんと呑気に俺の額をつつく彼女。
病室は静かだった。空調調節のためのファンが静かに回っている音と、彼女が動くたびにシーツと肌が擦れる音しか聞こえない。

「…お前な」
「…それより、"慎也"」

彼女は綿毛布を翻して俺の方へ擦り寄るとにこにことあのいつもの笑顔を浮かべる。
おかしい。何かがおかしい。それに俺の見間違いでなければ、彼女の足の裏にもうっすらとした文字が描かれていたはずだ。

「体調は?」
「…医者を説得してきた」
「万全じゃないのによくやるね。前もそうだったじゃん、たしか…あれは朱ちゃんに撃たれたときだったっけ」
「…ああ」
「無理しないでね」
「わかってる」

これ以上話しても埒があかない。俺はまた息を吐くと、立ち上がって身なりを整えた。

「もう行くの?」
「ああ」

彼女を一瞥すると、俺は踵を返してそのまま出口に向かった。ガラスの扉の傍には、常守の頭が少しだけ見えている。

「そうだ、あのね」
「なんだ?」
「…これ以上踏み込まない方がいいよ」

冷たい彼女の声に、背筋がぞわりとした。顔はもう見えないが、彼女は笑っているようだった。

「それは槙島のことについて?それとも……お前のことか?」
「違う。局長のことについて」
「…」

クスクスと笑うと、彼女はまたベッドに横たわる。

「…肝に銘じておくよ」













「報告書は読んだよ。常守朱監視官の証言だが、あれは本当に信憑性があるのかね?」
「現場検証は入念に行いました。対象までの距離は8メートル弱。被害者との位置関係も明白です。犯行は明らかに常守監視官の目の前で行われ、そしてドミネーターは正常に作動しなかった。それは、槙島聖護だけでなく、東雲暁に対しても同様に言えることです」
「被害者は常守監視官の親しい友人だそうじゃないか。動転してドミネーターの操作を誤ったのでは?」
「彼女はそこまで無能ではありません」
「経験が足りてないと以前の君の報告書にはあったが」
「だとしても素質は本物です。監視官としての彼女の能力はシビュラシステムによる適性診断が証明しています」
「そのシビュラの判定を疑う旨の報告を君たちは提出しているわけだが…」

禾生はルービックキューブを模したパズルを弄んでいた手を休めると、真っ直ぐ宜野座を見上げる。

「宜野座君。この安定した繁栄…最大多数の最大幸福が実現された現在の社会を、いったい何が支えていると思うかね?」
「それは厚生省のシビュラシステムによるものかと」
「その通りだ。人生設計欲求の実現、今やいかなる選択においても人々は思い悩むより先にシビュラの判定を仰ぐ。そうすることで人類の歴史において、未だかつてないほどに豊かで安全な社会を我々は成立させている」
「だからこそシビュラは完璧でなければなりません」
「然り。シビュラに間違いは許されない。それが理想だ。だが考えてもみたまえ。…もしシステムが完全無欠なら、それを人の手で運用する必要すらないはずだ。ドローンにドミネーターを搭載して市内を巡回させればいい。だが公安局には刑事課が存在し、君たち監視官と執行官がシビュラの目であるドミネーターの銃把を握っている。その意味を考えたことがあるかね?」
「それは無論…」
「いかに万全を期したシステムであろうと、それでも不測の事態に備えた安全策は必要とされる。万が一の柔軟な対応や機能不全の応急処置。そうした準備までをも含めてシステムとは"完璧なるもの"として成立するのだ。システムとはね、完璧に機能することよりも完璧だと信頼され続けることの方が重要だ。シビュラはその確証と安心感によって、今も 人々に恩寵をもたらしている」
「はい」

宜野座は静かに頷く。

「宜野座君、私は君という男を高く評価している。本来ならば君の階級では閲覧の許可されない機密情報だが、私と君の信頼関係において見せてやろう。…他言無用だぞ」

そう言うと禾生はタブレットを操作してディスプレイに二つの情報を表示させた。

「これは…」
「とある男の逮捕記録…そしてとある女の実験記録だ。まずこの男についてだが…彼は犯罪係数の計測なしに逮捕された。記録上はまあ、任意同行ということになっているがね」
「藤間幸三郎…」
「3年前に世間を騒がせた連続殺人の被疑者だ。君たちの現場では標本事件などと呼ばれていたようだが。結局彼を取り押さえるに至った二係には、徹底した箝口令が敷かれた」
「なぜです!?この男のために我々がどれほど…!」
「今回のケースと同じだよ」
「えっ?」
「事実上の現行犯。そしてあらゆる物証の裏付けがあったにもかかわらず、藤間幸三郎にはドミネーターが反応しなかった。彼の犯罪係数は規定値に達していなかったんだ。我々はこうしたレアケースを"免罪体質者"と呼んでいる」
「免罪体質?」
「サイマティックスキャンの計測値と犯罪心理が一致しない特殊事例だ。確率的にはおよそ200万人に1人の割合で出現しうると予測されている。槙島聖護や東雲暁の件についても驚くには値しない。この男は3年前の事件にも関与していた節があるのだろう?藤間と槙島。2人の免罪体質者が揃って犯行に及んだからこそ、あの事件の捜査は難航を極めたわけだ。まあ東雲暁には入り組んだ事情があるからな…それは後で話そう」
「藤間幸三郎はどうなったのです?」
「行方不明と公式には発表されているわけだが、私もそれ以外のコメントをここで述べるつもりはない。ともあれ重要なのは、彼の犯罪による犠牲者が二度と再び現れることはなかったという事実のみだ」

そこで禾生は息を吐いた。
鋭い視線が宜野座のものとかち合う。

「彼はただ、消えたのだ。シビュラシステムの盲点を暴くことも、その信頼性を揺るがすこともなく消えていなくなった。…君たちはシステムの末端だ。そして人々は末端を通してのみシステムを認識し、理解する。よってシステムの信頼性とは、いかに末端が適性に厳格に機能しているかで判断される。君たちがドミネーターを疑うならば、それはやがて全ての市民がこの社会の秩序を疑う発端にもなりかねない。……分かるかね?」
「…提出した報告書には不備があったようです」
「結構だ、明朝までに再提出したまえ。当然君の部下たちにも納得いく説明を用意する必要があるだろうが」
「お任せください」
「よろしい。宜野座君…やはり君は私が見込んだとおりの人材だ」
「しかし、この実験記録とはどういうことですか。何故、東雲の個人データは極秘レベルのものになっているのか…今朝の局長の臨時通達には何か違和感を感じました」
「ああ、そうだ。彼女の話もしなければいけないな。そもそも、こちらの話がメインだったのだから」

禾生は口許に薄い笑みを浮かべると、再びタブレットを操作して藤間幸三郎のデータを消し、実験データを詳細に表示する。

「槙島聖護と共に、東雲暁も現場にいたとの報告だったな」
「はい。これは常守監視官だけではなく狡噛執行官や…征陸執行官も証言しています」
「彼女は槙島聖護という犯罪者に手を貸したわけだ。そして彼女のサイコパス数値もまた、ここにいた頃より良好になっている」
「はい。その彼女を何故また執行官として復帰させることになったのか…説明を求めます」
「よかろう。今から私が話すことは機密事項だ。口頭で話すのは記録することができないほど問題があるからだということを、念頭においてほしい」
「はい」
「彼女は10歳のときに自殺未遂をして数値で引っ掛かり、以来ずっと施設の中だったとされている。…だがこれは事実と異なる」
「どういうことですか」
「確かに彼女は10歳で施設に入れられた。だがそれは彼女の頭がおかしかったからではない。これは彼女も知らないことだが…東雲暁の両親は私たち厚生省が支援していた研究室の研究員でね。…自分の娘を国に売ったのさ」
「国に…売った…?」













「あの…わたし……実は昨日から……ここにいて……」
「ええええ昨日から?!そのわりには人の気配なかったんだけど……」
「それは…よく言われます…あの…玄関のそばにいました」

私、根暗なんです。
貴女の細胞のネガティブ因子を全部表出させたのが、私なんです。

俯いて彼女はそう呟いた。いきなりのパンチのきいた自己紹介にはさすがに私も狼狽えた。というか、私自身がこういう性格になる可能性もあったわけだ。不思議な感じ。

とりあえず彼女をソファーに座らせて、置いてあった茶葉でお茶を淹れてみた。ありがとうございます、と彼女は頭をペコリと下げる。

「昨日って?槙島が貴女を置いていったの」
「はい」

聞いてないよこんな話。
こんな自称根暗な自分と何話せばいいのよ…。

「しばらく戻れないと…」
「らしいね」

困った。私にこの子の面倒を見ろと言うのか。
どうしようかと彼女を見ると、怯えた顔でちらちらと私を盗み見ていた。どうしてこの子はこんなに怯えているのだろう。

「あのー…そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
「そうじゃなくて…」

彼女は首を横に振ると悲しそうな顔をして、小さく指先だけで手遊びを始めた。
言いたいことがあるらしい。こんな"彼女"も私の一部なんだから、聞こう。私の話くらい、私はいくらでも待てる。

「何かあったの?」
「…実は…さっきから妹達の信号が突然一斉停止して…」
「?」
「聞いたでしょう?残り滓である妹が408人いるって…。その信号が、急に途絶えたんです」
「どういうこと?」
「だから、生き残っていた妹達が全員死んだ可能性があるってことです」

全員、死んだ?

「どうして!?」
「理由はわかりません…それに、その…かなり微弱ですがテスト用プロトタイプの909の脳波だけは感じられます」
「生き残りがいるの?」
「わからない…でも…」

もごもごと何か呟く彼女の腕を掴んで、私は立ち上がらせた。

「場所をおしえて」

彼女は少し動揺したような顔で何度も瞬きをして私を見た。

「行こう」
「どうするつもりですか…」
「わからない…わからないけど…でも行かなきゃ」
「…」
「だいたいさ、緊急事態にこんなところで燻ってるなんて"私達"らしくないでしょ?」

どうして自分がこんな行動を起こしたのかわからない。
会ったこともない自分のクローン達に会って今さら何をするというのだろう。みんなもう殺されてしまったのかもしれない。遺棄されてしまったかもしれない。
でも、その子達だって私なのだ。どんな姿でどんなことをされていても、彼女達は生きている私なのだ。それが真実なら、私は受け止めなければならない。
そのためにあの檻から出てきたのだから。
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