「…なぜ」
「…」
「何故、なんだ」
少し昔の話をしよう。常守朱監視官が公安に配属になる少し前のことだ。
宜野は唐突に私に問いかけた。
厳密に言うと、こいつが話しかけるときはいつも唐突だから私は別段驚かない。
今回の当直は私と宜野、そして狡噛の三人だった。
本当は弥生が一緒のはずだったんだけど、その前日にあった事件の犯人確保の際、怪我をしてしまったので今日だけは安静に、と志恩のお達しがあったのだ。そういうわけで代理に狡噛が入ったので今日は珍しい三人になった。
狡噛は部屋に羽織り物を取りにいく、といってさっき出たばかりだ。
つまりこの室内は私と宜野の二人きりだった。
やることもないので椅子に凭れながら本を読んでいたのだが、ふと本から目をはなすと宜野と目があった。
「お前に聞きたいことがある」
「…なに?」
それからはご想像の通り。
宜野は躊躇いがちに私に切り出した。
「お前が10歳でここに入れられたとデータファイルにあったが」
「あぁー…はい」
「…そのきっかけも、10歳の誕生日だと」
宜野が何を言いたいのかはなんとなくわかった。はっきりしない男だな。
私を傷つけないために言葉を選んでいるつもりらしいが、内容が内容なだけにあまり意味はない。
「はっきり言えば」
「…なぜ、自殺を計った」
きた。
いつか宜野は私に聞くだろうと思ってたけど。これは嘗ての狡噛慎也監視官にも聞かれた。あの男はオブラートに包むことなんか知らないというようにはっきり聞いてきたけど。
私は10歳の誕生日、部屋にあった縄跳びの縄で自分の首を絞めて自殺を計った。
別に特に理由はない。
死ぬのか試したかった。単なる好奇心だった。あとで考えればそれは異常な思考回路だったのだろうけど、そのときの私は別段何も思わなかった。
純粋さが裏目に出た人間だったのだ。
ただ運悪く私は死に損ない、親に見つかってしまったのですぐに病院に連れていかれた。
娘の頭がおかしくなった、と母親が泣き叫んでいたのを覚えている。父親は母親の肩をそっと抱き、弟はぽかんとした顔で私を見ていた、気がする。
「強いていうなら、死ぬ感触を味わってみたかったのよ」
宜野が眉をひそめる。理解できない、意味がわからない、というときの顔だ。宜野のような正常な神経を持った人間に、私のような潜在犯の気持ちなんてわからないだろう。
───わからなくていいし、わかったら困る。
私の気持ちを理解するということは、潜在犯の気持ちを理解するということ。それはつまり、宜野のサイコパスが…色相が濁ることを意味する。
「俺には理解できない」
「でしょうね。私も理解してほしくなんかないし」
宜野は苛立つように立ち上がった。ずんずんと私に詰めより、私の右手を掴む。
狡噛は、まだ戻ってこない。
「お前の思考をそこまで追い詰める起因はなんだったんだ!」
「起因とか理由とか、そんなのないよ。追い詰められてたわけじゃない、ただ純粋に興味があったの。自殺なんて私にしてみればただの遊興だった!」
「だから、なぜ」
「貴方と私は決定的に人間性が違う!生まれもってそういう歪んだ思考を抱く人間と抱かない人間がいるの!!なんでそんなにつっかかってくるわけ?!そうやって監視官が執行官の気持ちを踏みにじるからサイコパスの数値が上がるんじゃないの?!」
宜野の問い詰めにイライラが募ってきて、思わず大きい声を出してしまった。というかいらないことまで言ってしまった。しまった怒られる、と思ったときには、宜野の目は驚愕と動揺の色で染まっていた。
怒られるという私の思考に反して、宜野は少し傷ついたような顔をして歯を噛み締めた。
「…俺は、お前が」
「おい、何でかい声出してんだ。外まで聞こえてたぞ」
宜野が何か言いかけた瞬間、ドアが開いて、狡噛がいつものコートを片手に佇んでいた。
「なんでもない」
私は慌てて宜野の手を振り払うと、自分のデスクに戻り、コーヒーを一口含む。
宜野もどこか納得がいかない、という不満そうな顔で自分のデスクに戻った。
「暁がでかい声出すなんて珍しいな。ギノと喧嘩か?」
「別に、なんでもないってば」
狡噛のタイミングの良さに内心感謝しながらも、私は落ち着かないのでパソコンを起動した。それを感じたのか狡噛は口端をつり上げて、そうか、とだけ返す。
気まずい空気の中で、狡噛だけが妙に飄々としている。なんなんだこの男は。
やることもないので パソコンに内蔵されているソリティアでもやってやろうかとタブレットをタップしたとき、宜野の端末機がバイブレーションで震える。
どうやら個人的な人物からの連絡らしく、彼は静かに退出した。
「で、…何言われた」
「は?」
狡噛は資料を読んでいたのだが、それから目を離さずに静かに私に問いかけた。
「お前がキレるなんて余程のことじゃなきゃありえない。ギノに何か言われたんだろ」
「まぁ…ね」
彼は私の良き理解者だが、狡噛には全て見透かされてるみたいでなんだかいたたまれない。
私も画面のトランプを移動させながら狡噛に曖昧に返した。
確かに私はそこまで短気ではない。もちろん気が長いのかと聞かれても、一系の皆様は首を傾げるだろうけど。
「…10歳の誕生日のこと、聞かれた」
「…そういうことか」
「そういうことです…」
ぐでっ、とデスクに頭をのせると、優しい手が私の頭をそっと撫でた。
目線は相変わらず動かないが、その手は紛れもなく狡噛の手だ。
昔からそうだった。
狡噛はよく私の頭を撫でてくれる。監視官だったときも、狡噛は失敗して落ち込んでいたり、しょんぼりしていたりする私の頭を黙って撫でてくれた。
多分、狡噛にしてみれば私はほんとにただの犬みたいなものなのだろう。
昔は監視官としてやってきた彼の後をついて回る、子犬だった私。
犬は恩を忘れない。
例え飼い主が自分と同じ犬に成り下がったとしても、やはり飼い主は飼い主なのだ。
私の飼い主は、あくまでも狡噛慎也なのだろう。
不思議と狡噛の手は落ち着く。自虐的なほどまでに鍛えているせいもあってか手はゴツゴツしているけど、でもどこか優しい。
冷たくて儚くて、あたたかい。
「…ギノもお前のこと心配してんだろ」
「ないわー…それはないわー…」
「さぁ、どうだかな」
狡噛はタバコに火をつける。ここ禁煙なのに〜、と私が呟くとギノには内緒だ、と言われた。
狡噛が内緒とか言うとギャップありすぎてちょっとびっくり。
「宜野には、私のことなんて理解できないよ」
「…」
私が目を伏せて呟くと、狡噛の手が止まった。
不思議に思って見上げると、狡噛と目が合う。
「?」
「いや、なんでもない」
狡噛は煙草を揉み消すと、どこか遠くを見るような目で今は誰も座っていない宜野のデスクを見る。
「…狡噛…?」
「あいつは…ギノは、お前を…」
「……」
「そうか」
何か妙に納得したらしい狡噛は、また私の頭を撫で始めた。
心地よくて瞼が落ちそうになるが、当直なので仕方なく目を擦る。
「寝てていいぞ。どうせ何もないだろうしな」
「でも…それじゃ今日…当直…なのに…」
「いい。俺が起きてるし、ギノももう戻ってくる。昨日あんまり眠れなかったんだろ」
「…なんで…」
知ってるの、と顔を少し上げると狡噛の長い人差し指が私の目のすぐ下を撫でた。
くま、と言われて鏡を見ると、たしかに少し暗い色になっている。
「寝とけ」
ばさ、と狡噛のコートを背中にかけられて体温が少し上がる。
ああ、眠くなっちゃうじゃん…。ていうか狡噛このコート自分のためにとってきたんじゃ……。
「おやすみ、暁」
瞼の向こうで、いつもより優しい声音が聞こえた。
意識が落ちる寸前に、額になにか柔らかいものが触れた気がする。
「恋人気取りか」
眠ってしまった暁の額にそっと唇を落とすと、突然ドアが開く。ギノが眉間にシワを寄せて戻ってきたのだ。
どうやら俺と暁のやり取りを見ていたらしい。
「別に。このバカ犬はお前より俺になついてるみたいだからな。これ以上お前らがギクシャクされると空気も悪いし、面倒なんだ。寝かしつけただけさ」
幸せそうに眠る暁のやわらかい髪に指を絡ませると、ギノはひどく面白くないとでも言うように目を細める。
「…お前と彼女が深く関わるのはあまり感心しないな」
「へえ、嫉妬か」
「ッ違う!」
わかりやすい反応に俺は小さく息を吐く。
ギノは落ち着かないというように自分のデスクに戻ったが、優しい目で眠る暁を見つめていた。
─────ほら、やっぱり好きなんだろ、お前も。
「穏やかじゃないな。お前は執行官を人間だと思っていないんじゃなかったのか」
「…」
「素直になれ、ギノ。お前は暁のことが」
「黙れ!」
認めたくない、とでも言うようにギノはバンッと机を叩いた。
暁は少し肩を揺らしたが、まだ眠っているらしく、彼女の唇からは小さな吐息しか聞こえない。
「心配なんだろ。支えになってやりたい。異常な思考回路を取り除いてやりたい。そばに、いたい。こいつにどうしようもなく惹かれている」
「…」
返す言葉もないらしく、ギノは腕を組んでうつ向いた。
図星のようだ。
「狡噛」
「わかるさ。俺もそうだからな」
ギノの目を見ると、奴は少し驚いたような顔をしていた。
「…そうか」
「だがあまり依存するなよ、ギノ。お前からすれば暁は潜在犯だ。こいつの思考を理解しようとするのはやめろ。身を落とすぞ」
──────俺みたいに。
最後にいいかけた言葉は喉の奥に無理矢理押し戻した。
「わかっている。…だが彼女を」
「…」
「守ってやりたいだけだ」
守る、という言葉がギノの口から出るとは思わなかった。
俺が少し面食らっていると横で眠っていた暁がもぞもぞと身を動かす。
「…ん…」
「…もう起きたのか。寒いか?」
目を閉じたまま首を横に振ると、暁はきゅっと俺のコートの裾の方を握ってまた眠り始めた。
そんな暁を見るギノの表情が、いつもとは考えられないほど優しいものだったから、俺は柄にもなく焦りに似た何かを感じていた。