あの日から8日が経った。相変わらずナマエはまだ殺される夢をほぼ毎日見続けていたが夢占いでは吉夢だということを知ってからあまり気にしないようにしていた。けれどそんな中でわかったことが2つ────1つは夢の中でいつも殺してくる相手は男であるということ、もう1つはナイフで刺されたということだった。ナマエはふと虐待を受けていた当時のことを思い出す。虐待は父と母の両方に、そして6歳のあの時、殺されかけた際には父が持っていたのはナイフではなく日本酒の空き瓶だった。では今彼女が見ている夢はどういった意味があるのか、夢と現実の相違点の意味は、疑問はたくさん浮かんだが答えはわからなかった。ただリヴァイにはまだ言わないでおこうと嫌な記憶に蓋をした。
今日は日曜日。リヴァイは休みだがカフェで働くナマエは出勤日だった。
「お先に失礼します」
「お疲れー」
午後17時。ナマエはいつもの時間に仕事を終え、さっさと着替えて裏の従業員専用の扉から屋外へ出た。今日はリヴァイが迎えに来てくれることになっていて、LINEで終わったことを連絡し待ち合わせ場所である駅前のロータリーに向かった。駅前は日曜日ということもありいろんな人で賑わっている。家族連れやカップル、友達同士、仕事帰りの人。そんな賑やかな中にナマエはスマホをいじりながらポツンと立っていたその時。
「─── × × ×!」
「ッ!?」
肩が、背中が、心臓がヒュッと浮いた気がした。賑やかな声や音に紛れて確かに耳に届いた誰かの声。それは思い出したくもないナマエの捨てたはずの名前だった。仲の良い友達には改名したことを伝えているし、リヴァイが過去の名で呼ぶことはない。だとしたら、その名前を呼んだのは誰か────世話になった施設の職員か、それとも自分を産み落としておきながら酷い虐待を繰り返した両親か。
「ひっ…!?」
後者だとしたら最悪だ。ナマエは一気に周囲が怖くなり耳を塞いでしゃがみ込んだ。怖くて怖くて堪らず嫌な汗が背中を伝っていくのがわかる。ガタガタと震えも止まらない。両親に見つかってしまったらまたあの地獄に引き戻されるかも知れない。やっと手に入れたリヴァイとの幸せな生活が終わるかも知れない。絶望に飲み込まれそうになった瞬間、それは更にナマエを恐怖へと誘う。
「× × ×!」
「ッ!?」
今度は先程よりも近い距離で聞こえた名前。しゃがんだままの態勢で反射的にそちらへ振り返ってしまってからすごく後悔をした。けれどナマエの目線の先には高校生くらいの女の子2人がいて何やら楽しそうに笑い合っている。盗み聞きは良くないと知りながらも話に耳を傾けるとどうやらあの名前を呼んだのはその女子高生で、そのうちの1人が『× × ×』という名前なのだということがわかった。女子高生たちはここで待ち合わせをしていたのか、そのまま駅の近くにあるファーストフード店へと消えて行った。
「………よ、かった……」
自分があの名前で呼ばれていた訳ではないとわかった途端、急に安心感に包まれる。よく考えてみれば過去の名前は日本人では良くある名前で、同じ施設で暮らした子どもや同級生にも何人かいたことがあった。それに両親は何年経っても施設にナマエを迎えに来ることはなかった。それは完全に捨てられたということだ。安心感と寂しさで俯くと誰かの人影がこちらに近づいて来るのがわかった。
「大丈夫?」
「…?」
鳥が鳴くような可愛らしい声に顔を上げるとそこには金髪で透ける水のような碧い瞳の女の子と、長身で一見男と間違ってしまいそうな髪の毛を後ろに束ねた女の子がいた。
「ぇ……あ…?」
「ご、ごめんね、急に声掛けちゃって。具合悪そうだったから。良かったらこれ使って」
スっと差し出されたのはピンク色のお洒落なハンカチとペットボトルに入った水。ハンカチからは柔軟剤の甘くて優しい、いい香りがした。
「ぁ……ありが、とう…」
小さくお礼を告げると金髪の女の子はニコッと笑った。あまりの可愛さに思わず見とれているともう一人の女の子が金髪の子の腕をグイッと引いて歩き出す。
「あ、ちょっと…!」
「もういいだろ」
「ハンカチ返さなくていいからね!」
「あ…!」
ナマエは立ち上がったがどんどん遠くなっていく女の子たちを追い掛けることは出来なかった。すっかり名前を聞くのを忘れたと後悔したが、ふとハンカチ見ると端の方に綺麗に刺繍された名前とタグに油性ペンで書かれた2つの名前が書かれてあった。
「……△△△…と、ひ、すと、りあ…?」
日本名と外国名だろうか。日本名の方が刺繍されていて外国名と思われる名前はタグの方。しかし“ヒストリア”という名前はどこか知っているような気がした。金髪の女の子もポニーテールの女の子も、何故か初めて会った気がしないのだがどれだけ考えても思い出すことは出来ず、もらったペットボトルの水をグビっと飲んでホッとひと息着いていると────
「ナマエ」
「…リヴァイ!」
「!」
声でその正体がわかり、バッと顔を上げた。そこにはいつものリヴァイがいてナマエは人目も憚らず愛しい彼に抱き着いた。リヴァイは少し動揺していたがすぐに腕を回して抱き締め返してくれた。
「何かあったのか?」
「…ううん」
「嘘つけ。顔色悪いだろうが」
「え、そんな、こと…」
「チッ……車乗るぞ」
ナマエの異変にいち早く気づいたリヴァイが問うが、当の本人は誤魔化そうと笑った。それが気に入らないリヴァイはロータリーに停めた車までナマエの手を引っ張って連れて行き、助手席に押し込んだ。リヴァイも運転席に座るとそのままエンジンを入れて車を発車させる。
「……で、何があった」
これは本当のことを言うまで聞いてくるだろうと思ったナマエが根負けし、先程の出来事を話した。
「───それで、わたしのことじゃなかったんだけどね。敏感になっちゃってたのかも」
「…苦しかったな」
「ッ……」
リヴァイが左手でナマエの頭をぽんぽんと撫でてやる。大好きな人の優しさが心にじわりと沁みて先程は怖すぎて一滴も出なかった涙が安易に零れた。ぼろぼろと止まることを知らずにナマエの頬や服を濡らしていく。
「ッ、ご、ごめ…」
「いい。今は泣け」
その声でさえも涙が止まらない原因だ。優しすぎるリヴァイに甘えてナマエはたくさん泣いた。
しばらくして落ち着いたナマエは零れた涙を女の子にもらったハンカチで拭った。リヴァイはナマエが少しでも楽になれるようロータリーからすぐ近くのコンビニの駐車場に車を停め、何も言わずにただ見守ってくれていた。
「ごめんね、だいぶ楽になった」
「それならいい。それより…」
「え?」
「そんなハンカチ、持ってたか?」
「あ、これね」
ハンカチのことをまだ話していなかったと、リヴァイにも助けてくれた女の子たちの話をした。初めて会うのにそんな気がしなかったことも。気のせいだろ、と鼻で笑われてしまったけれど。
「うん、気のせいだと思うけど。でもまた会えたらいいなって思ってる」
「……そうだな」
「一人の子しか名前はわからなかったんだけど、ヒストリアって言うんだって」
「ヒストリア、だと…?」
「え、うん。もしかして知ってるの?」
「……いや、」
「2つ名前が書いててね、△△△とヒストリアって。2つも名前あるなんて何だかカッコイイね」
先程の涙を忘れてナマエは笑って話す。一方でリヴァイは何とも言えない複雑な気持ちになったが、彼女は嬉しそうにハンカチを握り締めているのでそれ以上その件について何も言うことはしなかった。
「……ナマエ」
「なに?」
「降りるぞ」
「え、コンビニに何か用あるの?」
リヴァイに促されるまま車を降りる。てっきりこのまま帰るのだと思っていたナマエは彼の考えが読めずにいた。
「何買うの?」
「…デザート」
「甘いもの、好きだっけ?」
「嫌いじゃねぇよ」
「それにしても急だね」
「お前の為だ」
「え」
「ナマエ、好きだろ?甘いもん」
「…うん。好き、だけど、」
ますますわからない、と首を傾げるとリヴァイがナマエの額にデコピンを一発。あまり痛みはなかったが反射的に額を押さえるとその後すぐに頭を撫でられた。リヴァイに撫でてもらうのは本当に心地が良い。
「今日、辛いことがあったんだから少しでも楽しい思いしてぇだろ」
「……優しいね、リヴァイ」
「お前にだけだ」
「うん、知ってる」
やっと理解したリヴァイの思いと行動。全てはナマエの為。泣いて気持ちが楽になったからとは言え苦しかった出来事が洗い流される訳ではない。それを忘れる為には楽しいことで上書きをしてやる、それがリヴァイの思い。その優しさは本当に愛されていると大切にされていると実感できるものだった。どうしてこんなに大切にしてくれるのかと問うたところで、リヴァイは照れ臭くて素直に答えてくれはしないだろうけど。きっとその答えは『愛しているから、好きだから』に違いない。
「好きなの買え。奢ってやる」
「本当にいいの?」
「くどい。いいと言ってるだろ」
「え、どうしよ……何にしよ…」
いざ選べと言われると、たくさんあり過ぎて迷ってしまう。いつも大好きで買っているエクレアでもいいし新作で出たばかりのバスクチーズケーキでもいい。選り取りみどりな状況にナマエはデザートコーナーに張り付いている。
「じゃあ、こんなのはどうだ?」
「え?」
「コンビニスイーツ、全種買い」
「…!!」
まるで天使とも悪魔とも取れるような囁きにナマエはゴクリと喉を鳴らす。コンビニのスイーツはお手頃なものから少しお高めのものといろいろあるが、いつも買うのは決まって130円のエクレアだった。稀に自分へのご褒美として高いケーキ系を買うこともあるが全種買いなんて贅沢はしたこともなければ、その発想もなかった。
「全種、買い……」
「してみるか?」
「うん!!!」
大きく頷いてスイーツを一つずつ、全ての種類を籠に放り込む。籠の中はスイーツで溢れ、まるでそこは天国のようだ。
「いいのかな!?こんな贅沢!」
「たまにはいいだろ」
会計を済ませ、スイーツでいっぱいになった袋を嬉しそうに抱えるナマエ。すっかり元気になった彼女を見てリヴァイもどこか嬉しそうだ。
「帰ったら、これぜーんぶ広げてスイーツパラダイスしようね!?」
「ああ」
「それで、キスもいっぱいしようね…?」
「…いくらでもしてやるよ」
その日、帰宅してからリヴァイがナマエを抱くことはなく、美味しいスイーツを頬張り、リヴァイの紅茶コレクションからお互いに好きなフレーバーを選んで淹れて、思い出話や将来の話をして、懐かしいカードゲームなんかもして、キスをたくさん交わして、そんな甘い時間を過ごした。
「(俺が優しくする女はこの世界でナマエだけだ。過去への償いも、今お前を愛する気持ちも、偽りはねぇ。だから、あの時の過ちをどうか思い出さないでくれ)」
────安心したように眠るナマエに、キスをした。