「あーあ…」
時刻は定時をとっくに過ぎていた。執務室で書類にペンを走らせていた名前が無造作にペンを放り投げたかと思えば、肘を机について手のひらに顔を乗せたまま盛大な溜息をついた。
「溜息つくと幸せが逃げますよ」
「もう逃げてます〜」
名前が項垂れても書類から目を離さない鬼灯が皮肉を言えば、拗ねたような声で返ってくる返事。
「ねぇ、鬼灯様。どうしてわたしはこんなところで仕事しているんでしょうか」
「そうやって仕事をサボるからでしょう。黙々とやればとっくに終わってます」
「鬼灯様は黙々とやっててもまだ終わってないじゃないですかー」
「貴女と私じゃ仕事量が違う。それか、この書類の半分を差し上げましょうか?」
「いいえ、遠慮しときます」
名前の机には60枚程度の書類、一方鬼灯の机にはその2倍以上の量の書類が置かれてあり、それが自分に回ってくるなんて考えただけで反吐が出そうだ。
「じゃあさっさと手を動かしなさい。口ばかり動かしていても書類は減りませんよ」
「……はぁい」
渋々、といった表情で名前はペンを握り直して再び書類にペンを走らせた。カリカリと無機質な音が響く中で名前も鬼灯も口を開かずに目の前にある書類にだけ集中した。そして───
「終わったーーー!!」
最後の一枚の書類を書き上げた名前は達成感や解放感からぐいっと伸びをして喜んだ。鬼灯は先程より3分の1は減っただろうか。懐中時計で時間を確認すれば時刻は22時を少し過ぎた頃だった。
「…終わったけど、また合コン逃したな〜」
「名前さん、合コンとか行くんですか」
「そりゃあ出会いを求めて?」
実は今日の仕事終わりに友達に合コンに誘われていたのだ。行くつもりだったが予想以上の書類に追われて結局ドタキャンという形になってしまい、またしても貴重な出会いのチャンスが遠のいたと名前は嘆いた。
「鬼灯様は彼女いないんですか?」
「いません」
「作らないんですか?」
「………」
「彼女欲しんだ」
「うるさい」
ここでやっと鬼灯が名前を見やる、というより睨んだ。その眼力だけで人を殺せそうな彼に少しビクつきながらもへらっとおどけて笑って見せた。
「まぁ、こんな時間まで社畜してたら出会いなんて求めても無理ですよね〜」
「合コンに行ったとしても、必ずしも彼氏ゲットにはならないでしょう」
「そうですけど、行かないよりは行った方が確率も上がるもんでしょ」
名前は唇を尖らせながら机の上をさっさと片付け始める。仕事が終わったならばすぐさま部屋へ戻って疲れた身体を癒したかった。
「ねぇ鬼灯様」
「何ですか」
この頃には鬼灯の視線は再び書類に戻っており、まだ大量に残っている書類と戦っていた。役職の違いがあるから、補佐官の補佐を務める名前には回ってこない仕事もある為、その分を上司である鬼灯が負担してくれているのだと思うと少しだけ申し訳なくなる。けれど、一度開いた口は簡単には閉じなくて、未だに仕事をする鬼灯に向かって懲りずに話し掛けた。
「どうやったら彼氏出来ると思います?」
「………」
「………そりゃスルーですよねぇ」
本気半分、冗談半分で話を投げ掛けたが鬼灯は目線の一つすら動かさずに書類に没頭している。スルーされるであろうことはわかっていた為、名前は先に帰ってしまおうと椅子から立ち上がった時。
「私が名前さんに付き合って、と言って、貴女がはい、と言えば出来ますよ。その反対も然り、ですが」
「…………えっ」
思いもよらぬ答えに名前は理解が追いつかなかった。戸惑う彼女を余所に鬼灯は何食わぬ顔で書類を書いている。
「……それって、どういう意味、ですか?」
恐る恐る問いかければ、鬼灯がペンを走らせる手を止めて名前を鋭い瞳で見据える。それはまるで狼が獲物を狙う時のよう。
「そのままです。私と付き合ってみますか?」
さらり、と流れるように告白されてもう名前の脳内はいろいろな情報や状況を上手く処理し切れていない。みるみるうちに頬や耳まで真っ赤に染めた。
「返事は!?」
「は、はい!!!」
急に大きな声で急かされて、思わずイエスと言ってしまった名前。ちょっとやばい、と思った時には既に遅かった。
「では、今日からよろしくお願いします。私のかわいい彼女さん」
「…………ッ、よろしく、お願いします……」
流れに乗せられ、付き合うことが確定してしまった2人。鬼灯にたくさん聞きたいことはあったが今はこのふわふわした感情をもう少し持て余したい、と思ったのだった。彼の本心を聞くことが出来るのはもう少し先になりそうだ。
2019 0604
mae tugi 13 / 13