zzz | ナノ






 そこは真っ白な部屋だった。いや、部屋というよりも空間と言った方が正しいのかもしれない。壁も天井も存在しない、無限に白い空間。私の立っている場所から少し離れたところに、ひとつ、豪勢な寝台が置かれていた。こつん、こつん、と足音を響かせながら、吸い寄せられるようにベッドへ近付く。誰かが、眠っているようだ。
 両手を胸の上で組んで眠る人物には見覚えがあった。かつて密かに想いを寄せていた少女、ななしだ。最後に会ったのはもう随分前になるが、まるで時など進んでいないかのように、あどけなさの残る顔立ちのまま、彼女は静かに横たわっていた。整えられた寝台で美しく眠るななしはまるで死んでいるようで…懐かしさよりも不安に襲われた私は彼女との距離を詰め、ベッドの端に軽く手をついて、覗き込んだ。昔と違っておろしたままの私の髪がベッドへ垂れる。
 ななしは柔らかい真っ白なクッションに埋もれ、両手に一輪の白い薔薇を抱いて眠っていた。その様がより一層彼女を屍のように見せているが、その胸に乗った花がゆっくり上下することで彼女が生きていることを如実に示していた。

「ななし」

 優しく、そっと、呼びかけてみるが、返事はない。彼女の名前を口にすることすら久しぶりだったのに。落胆した気持ちを取り繕うように、幼さの残るふっくらとした頬を指の背でゆっくり撫でると、ほんのりと温かさを感じた。やはりななしは生きている。そう確信するのに、彼女はただゆったりと呼吸をするだけで、私に対しては何の反応も示してはくれない。そのままゆるゆると頬を撫でながら、安らかに眠るななしをしばらくの間見つめていた。今は閉ざされているその目が、私を映すことはないのだろうか。柔らかな声で私の名を呼んではくれないのだろうか。そこまで考えて疑問にぶつかる。はて、私の名とは一体どちらだ。今はXだが、最後にななしに会ったのは私がまだクリストファーであったときだ。名を捨て復讐を誓ったというのに、いまさら名前を取り戻し、クリスと呼ばれたいとでもいうのか。
 ふと、この寝台を彼女の胸に抱かれた白い薔薇で埋め尽くしたならば、それは美しい光景なのではないかと思った。少しばかり想像を巡らせてみると、なるほど、確かに絵になる美しさに違いないが、この空間には彼女を彩るための薔薇など存在しない。ところが、気付けば私はいつの間にか腕一杯に白薔薇を抱えていたのだ。あぁ、ちょうどいい。でも、何故? 疑問に思いこそしたが、その花をひとつ、ふたつと枕元へ散らしていった。白に上塗りされる白。手元にあった花は全て飾りきってしまった。上塗りした白はまだ疎らな斑模様で、どうにもみすぼらしい。どうしたものかと考えていると、また、知らぬ間に私は花束を抱えていた。よかった、これでななしを薔薇に埋もれさせることができる。
 まるで幼子に戻ったような、わくわくとした気持ちで白い薔薇を並べていった。ひとつ、またひとつ。全てを並べ終えると、再び新しい花束はどこからともなく現れた。ただひたすら、それを繰り返した。枕元、顔の周辺だけではなく、寝台全てを薔薇で塗り変えた。白い花の中、穏やかな寝顔と組まれた両手だけが、埋もれることなく存在している。

 あぁ、なんと美しい。

 思わず感嘆の溜め息をついた。一歩離れたところから薔薇の花に埋もれたななしを見下ろす。純白に守られた清らかな少女。彼女が生きていることは先ほど確認したはずなのに、やはり私には死んでいるように見えた。
 美しい屍のようなななしに見とれていると、突然薔薇が燃え、青白い炎が彼女を取り囲んだ。頭が真っ白になる。ななしを助けなければ。その一文だけが頭に浮かぶが、驚きすくんだ体は言うことを聞かない。嫌だ、いやだ、ななし…! 炎は一瞬にして空へ燃え上がり、そして、消えた。

 炎が消え去ったあと、あれほど綺麗に敷き詰めたはずの薔薇の花は、ひとつ残らず無くなっていた。しかしそんなことはどうでもいい。それよりも、ななしだ。あぁでも、これは一体…? つい先程まで私が見ていたのは、確かに記憶の中に存在する少女であったのに、今、そこに横たわっているのは、ななしとよく似た顔立ちの、しかし、面識のないはずの女だった。そうであるのに、私には彼女が、数年会わない間に成長したななしにしか思えなかった。そう、私だってあれから成長したのだ。弟たちだって。だからななしだって成長する。今のななしは、今私の目の前にいる彼女なのだろう。根拠など何もない。でも私にはそうとしか思えなかった。
 一歩、彼女に近付いた。自分が抜き身の短剣を握っていることに気付く。そして、ふと目をやったななしの胸の上、先程までと同じように組まれた両手が今度は鞘を握っていた。まじまじとななしを見つめる。寝台に横たわる彼女は、姿勢こそ変わりはなかったが、頬は薄く色付いていて、軽く閉じられた唇が、やけに赤く見えた。シーツから覗く肩は惜しげもなく素肌を晒していて、それがいやに艶めかしい。今度の彼女は死んでいるようになど到底見えやしなかった。赤に思考を侵食される。
 この短剣を彼女のふっくらとした胸に突き刺してしまおうか。そんな考えが頭をよぎった私は、おもむろにななしの腰辺りに馬乗りになった。その真っ赤な唇のように、彼女の血はこの白で埋め尽くされた空間では映えるに違いない。胸から流れ出た血液が彼女の腕を穢して、寝台もこの空間も、赤に染めるのだ。えも言われぬ幸福感に満たされて、自然と笑みが浮かんだ。半ば恍惚としながら左手で彼女の両手を握り、右手でナイフを振り上げる。
 その瞬間、指先に彼女の握る短剣の鞘が触れ、はっと我に返った。私は、ななしを殺す気なのか…? いや、違う。私は決してそんなつもりは、ない。では何故? 自問自答したところで答えは出ない。ばくばくと脈打つ心臓と興奮した頭を冷やすために、一度大きく深呼吸をした。振り上げた腕をゆっくり戻す。ひとまず冷静になった頭で判るのは、私は今でもななしのことが好きだということだった。そっと彼女の両手から鞘を抜き出し、短剣を収め、枕元へ静かに置く。それから、昔よりも幾分細くなった頬のラインを指でなぞった。彼女は今、どうしている? しあわせな生活を送っているのだろうか。恋人は、いるのだろうか?
 長らく仕舞い込んでいた恋心。久方ぶりに顔を出したそれは、悪戯に私の鼓動を早くさせた。熟れた林檎のように真っ赤な唇が、私の視線を捕らえて離さない。頬を触っていた指を移動させて、くちびるに触れる。適度に湿り気を帯びたそれは、優しく私の指を押し返した。この唇は既に他の誰かのものなのか? 私には知る由もなかったが、少なくとも今、この場においては、私だけのものだ。
 ふわり、と心の底から何か不思議なものが湧き上がってきた。満たされた気持ちになりながらも、足りない何かを欲していた。枕元に置かれた短剣を乱暴に振り払うと、それは鈍い金属音を立てて下へ落ちる。ナイフの置かれていた場所に手をつき、そっと顔をななしに近付けた。私の髪がはらはらと垂れ、彼女の髪と混じりあう。長い睫毛。瞼に隠された綺麗な瞳を今もまだ見ることができない。それを残念に思うが、今ここでは、見れないままで良いのかもしれない。これ以上この空間に色が増えては、きっと魅了されてしまうから。彼女の呼吸を感じるほどに顔を近づけ、目を閉じる。暗闇でなお、鮮明に思い浮かべることのできる赤いあかい唇を、ゆっくりと、味わうように舐めた。