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 Wはすでに我慢の限界だった。告げられた時間にはまだ早かったが、構わずに家を飛び出す。なにせ四日間も愛しい恋人に会えていないのだ。彼は四日間ひとりぼっちの夜を過ごした。いつもなら互いに体温を分かち合うはずのななしは居らず、ひとりぼっちで。どうしようもなく寂しくて、Wはななしに会いたくて会いたくてたまらなかった。彼女の豊かな胸へ顔を埋め、彼女の匂いで肺を一杯にし、頬を柔らかな膨らみに擦り寄せ、耳で心臓が血液を送り出す音を聞いて、全身で彼女を感じたくて仕方がなかった。

 Wとななしは幼馴染みだった。恋人だった。それから、フィアンセだった。周囲の人間は自分たちを正式な婚約者だと認識しているかどうかは判らなかったが、少なくともWはそう認識していたし、ななしも優しく笑って頷くものだから、二人にとっての関係の名付けはそれでいいとWは思っている。
 高校生にしてフィアンセだなんて、大がかりな関係のようにも思えるが、その実、きっかけは決して大層なものではなかった。幼い頃に交わした約束。大きくなったら結婚しよう! これがただずっと守られてきただけなのだ。
 Wはななしのことが好きで好きでたまらなかった。たった四日会えないだけで寂しくて苛立って頭がおかしくなりそうなほど好きだった。ななしは今、訳あってWたちと一緒に暮らしているにも関わらず、何故二人は会うことが叶わなかったのか。彼の症状は相当重症ではあるが、会えない理由そのものは特別深刻なものでもなんでもない。ななしが修学旅行に行っていた、ただそれだけだ。もちろん電話で声を聞くことはできた。でもWは機械越しに聞く優しい声だけでは物足りなくて、当たり前に側にあった彼女の温もりが欲しかった。

 さて、ななしを迎えに行くべく家を飛び出してきたWであったが、彼女を乗せたバスはまだ学校へは到着していなかった。仕方なしに校門の脇にもたれかかって彼女を待つ。待っている間、Wの頭を占めるのは当然ななしのことだった。誰しもが振り返る人形のような美しい顔立ちを思い出しては、ガキの頃から人形みたいだと思っていたなと思ったり、そういえばいつの間にか胸がでかくなってたな、などと下世話なことまで考えたりして時間を潰していた。その間に何度時計を見たかはわからない。
 もうそろそろのはずだ、とWが思ったときに聞こえてきたピーピーという機械音、そしてバスから降りてきたバスガイドの姿に彼の心は踊った。駐車の補助をするホイッスルの音をたてて聞きながら、このバスにななしは乗っているのだろうかとWは思った。走る気持ちを押さえつけ、食い入るように客席の窓を見回すが、いない。反対側の席に座っているのかもしれないし、もしかしたらカーテンの閉まっていた席に座っていたのかもしれない。がっかりする気持ちと焦る気持ちをやり過ごしながら、Wはバスを眺めていた。
 バスの扉が開く。少し離れたところから降りてくる生徒をくま無く見つめるが、なかなかななしは降りてこない。まだか、まだか、とWは思う。Wがいることに気付いて浮き足立つ生徒も中にはいたが、彼はそれに気付かないふりをしてななしを探した。ファンサービスを心掛けているWであったが今はそれどころではない。一台目、ついにななしの姿は無かった。
 そのあと到着した二台のバスにもななしの姿を見つけることはできなかった。それだけでも苛立って仕方がないというのに、その場で解散となったクラスの生徒たちに取り囲まれたWは更に不機嫌になった。囲まれるとなるとさすがに無視することはできない。彼は「紳士」なのだから。機嫌の悪さをぐっと殺し、人の良い笑顔で、しかし困ったようにWは告げる。

「すみません。今日は私にとって一番大切な人、恋人を迎えに来ているもので…。彼女が来るまで、ということになってしまうのですが…。えぇ、もちろん時間の許す限りでなら構いませんよ」

 恋人という言葉に周囲は一気に色めき立つが、Wは内心げんなりしていた。できることなら全て断ってしまいたかったが、外面が良いに越したことはない。当たり障りのないよう
にこにこと対応をしながらも、視線でななしを探すことはやめなかった。
 Wは吸い込まれるようにある人物に目が釘付けになった。見間違うはずもない、ななしだ! 怒鳴り散らすことこそしなかったが、ファンを前に取り繕っていたものなどすべて剥がれ落ちた彼は、取り囲む人々を乱暴に押し退け、ななしの元へと一目散に向かった。

「ななし!」

 ななしとの距離はまだあったが、Wは堪えきれずに大声で名前を呼んだ。すると、バスから降りたばかりの彼女ははっとしたように辺りを見回し、声の主を見つけると一瞬驚いた顔をしたのち、すぐににっこりと笑った。そんな彼女が愛おしくてたまらないWは、無我夢中で駆け寄る。そして、周囲のことなどお構いなしにななしの腕を引き、華奢な体をぎゅうっと力一杯に抱きしめた。豊かな胸が当たる感触も、抱きよせた細い腰も、鼻腔をくすぐる甘い香りも、ここ数日でWが望んで止まなかったものだ。
 絶対誰にも渡すものか、と醜さと暖かさを兼ね備えた独占欲が彼の胸中でむくむくと育つ。神代凌牙にも、九十九遊馬にも、その他ななしの回りをちょろちょろしている奴らはもちろん、家族にだって、渡したくはなかった。欲にせっつかれて湧き上がった衝動のままに、ななしの頬に手を添えて、唇を重ねる。ななしは咎めるようにWの名を呼んだが、彼はそんなこと一切無視をしてキスをした。
 周囲が息を飲んでざわめく気配を確かにWは感じたし、ななしが恥ずかしがっているのも十二分に分かってはいた。別に舌を突っ込むわけでもない、唇を触れあわせるキスくらい良いじゃないかとWは思う。むしろ舌を突っ込んで周りの奴らに見せつけてやりたいくらいだと思っていた。そういうわけで、彼の頭にはキスを中断するという選択肢はなく、そのまま角度を変えて唇を重ねた。柔らかなくちびるに触れる度に愛しさは募り、きゅうっと優しくWの心を締めつける。
 幾度目かのキスのあとでようやく顔を離すと、真っ赤に頬を染めたななしがWを見つめ返していた。その表情は心なしか拗ねているように見えたが、恥ずかしそうで、少しだけ嬉しそうで、それがまたWにはたまらなかった。

「ななし、会いたかった…」
「…たかが数日だよ? それに電話で話だってしてたし……」
「お前は、俺に会いたくなかったのか…?」

 自分で思った以上に悲しげな声を出してしまったとWは思った。そんな自分を情けなく思うものの、会いたかったのだから仕方がないと正当化する。でももし、ななしはこれっぽっちも寂しいだなんて思ってくれてなかったら? 一抹の不安がWの脳裏によぎった。ななしは少し驚いたように目を見開いたあと、頬を染めたまま、恥ずかしそうに控えめに笑って口を開く。

「私も、会いたかったよ」

 その一言にWはすっかり舞い上がってしまい、再びななしに口づけようとした。柔らかな感触が彼の唇に触れるが、それはWの望んだものではない。ななしの手のひらだ。Wの心は瞬く間に一転し不機嫌になったが、ななしもまた困ったように眉を寄せている。

「だって、みんないるから……だから、」
「わかったよ。あとで、な」

 覚えとけ、と言わんばかりに妖しく笑ったWにななしはなんとも言えない表情をして、更に頬を紅潮させた。その様子がどうしようもなく愛しくて、Wの中で好きだという想いがどんどん膨れ上がっていった。いつだってこの上ないくらいにななしを好きだと思うのに、いつもそれを越えてどんどん好きになっていく。そして好きが大きくなるのと同時に、独占欲だとか様々な欲望も、ぶくぶくとWの心に姿を現すのだ。 
 Wがここ数日あれほど望んでいた抱きしめることは叶った。キスをすることも叶った。でもこれじゃ足りないとWは焦れる。早く二人で過ごす部屋へ戻って、それから、それから…。ほんの一瞬前までは会えるだけでもいいと思っていたのに、会えた今はそれだけじゃ足りない。ギャラリーのせいでななしに想いをぶつけることのできないこの場から少しでも早く、二人一緒に逃れたい。Wが今、望むことはそれだけだった。その先を望むのは今の望みが叶ってからだ。