「あ、」

ぴりりとした痛みが右手の指先を駆け抜けて、緑間は思わず小さな声を零した。
紙の端に添わせた人差し指の腹を覗き込めば、真一文字に薄く皮がめくれている。思いの外深く切った傷口は仄かに赤く染まり、やがてじわじわと血が滲みはじめる。
汚い赤だと思った。濁っていて、重たくって、それからどうにも、痛々しい。緑間が欲しいのは透けるような、夜のしじまのような、ひどく冷ややかなあかいろなのに。
どうした、緑間。凜とした声にふと我に返って、緑間が顔を上げる。赤司は手元の書類に目を落としたまま、緑間に見向きもしないで、淡々と無機質な活字を追っていた。一度も触れたことなどない、艶やかな赤い髪ばかりが視界を覆ったけれど、やっぱりこれでもないのだと緑間はまばたきをする。

「少し、指を切っただけだ」

たいしたことはない。抑揚もなく告げたと同時に、赤司ははっとしたように視線を寄越した。少し困ったように寄せられた眉の下、玲瓏としたあかい双眸と、そこでようやく真っ直ぐに交わる。緑間は気付かれぬようこっそりと、満足げに瞳を細めたのだけれど、赤司はとうに感付いていたのかもしれない。傷口をなぞる指先が冷たい。

「まったく、気を付けろよ」
「わかっているのだよ」
「お前の指は、とても大事な指なんだから」

心配だなんて微塵も漂わせず、苦笑しながら窘める赤司に、緑間は黙って頷いた。そう、その通りだ。この右手だって、自分のバスケを支える大事な武器だ。赤司の言うことはいつも正しい、のだけれど。

「ゆび、だけか」

思わず、堪らず、ぽろりと唇から漏れた言葉に、しまったと息を呑む。

「なんでもない、忘れろ」
「生憎、一度聞いたことを簡単に忘れられる質ではなくてね」
「うるさい。いいから、忘れろ」

くすくす笑って、じいっとこちらを覗き込む赤司から、緑間は慌てて顔を逸らした。赤司の瞳は、どんな表情をしているだろう。呆れているのか、それとも、楽しんでいるのか。ちらりと盗み見た先の、伏せた瞼の下に湛えた色が、上手く窺えない。みどりま、とやわらかく名前を呼ばれて、仕方なく、赤司の視線を真正面から受け止めた。

「じゃんけんをしよう」
「は?」

思い掛けぬ言葉に切れ長の瞳を見張り、緑間は胡乱げに眉をひそめ首を傾げた。ほらほら、と促されるままに手を出して、訳のわからないままにじゃんけんをする。

「ああ、お前の勝ちだね」

ひらかれた緑間の左手に、握りしめた右手をこつんとぶつけて、赤司はひどく愉快そうに囁くと、うすくわらった。



それから、赤司は毎日緑間に声を掛けては、たった一度だけ、じゃんけんをする。けれども緑間が赤司に勝てたのは、最初の一回だけであったから、あの日のことは夢かまぼろしか、どちらにしても、きっと赤司の狙い通りだ。
緑間はひらいた左手と、指二本伸ばした右手を見比べて、ふうっと息を吐いた。そういえば、あいこになったことさえないのだから、やはり自分は赤司に揶揄われているのかもしれない。なにが足りないのだろうか、と、左手を睨み付ける。たかだかじゃんけんと言えども、赤司との勝負で手を抜く気など毛頭ないし、到底勝ち得ぬ相手だと諦めることもしなかった。

「俺はまだ、人事を尽くしていないのだな」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「またお前は、人を惑わすことを言う」
「そんなつもりはないんだけどね」

赤司は口元に悠然とした笑みを灯して、ふふふ、と擽ったそうに笑う。赤司がこんなふうに、声を立てて笑うのはさして珍しいことでもなくて、むしろ彼は、些細なことでも存外によく笑った。けれども緑間には何がおかしいのか、さっぱりわからなかったから、憤懣とした表情で綻ぶ顔を見下ろした。
そんな緑間を宥めるでもなく、赤司は静かに窓辺へ寄って、カーテンの隙間から外の景色を見渡す。漏れ入る陽光がきらきらとその髪を照らして、眩しかった。あたたかなひかりを吸い込んで、すこうしだけ、瞳と似通った色になる。そこに映りこむものなど、緑間には知る由もない。赤司の透き通った双眸は、いつもいつも、緑間よりずっと先を見ていた。埃で汚れた窓硝子の向こうで、線対称の赤司が言う。

「お前に天命を授けるのは、いったいどこの誰なんだい」
「そ、れは」
「なんだ、答えられないのか」

ずん、ずどん、がらがら。何か重いものがのしかかって、みしみしと壊れていく感覚。積み重ねてきた努力に、尽くしてきた人事に付随する結果は、おのれ自身の手で掴み取るべきものだ。けれども赤司の求めている答えは、もっと違うところにあるような気がして、緑間は口を噤んだ。それは緑間よりも、遥か向こうにあるのだろうか。
例えば、神様、みたいに。

「緑間、靴下を脱いでごらん」
「くつした?」
「そうだよ。ほら、早く脱ぎなさい」

緑間は何の神様も信じてはいなかったけれど、熱心な信仰者というのはこんな気持ちなのか、と思う。言霊とはよく言ったもので、それほど、赤司の言葉には力がある。別段に、彼を盲信しているわけではなかった。それでも、そうするべきだと納得してしまう力が、赤司の声にはあった。
椅子に腰掛けて、ゆっくりと左足を持ち上げて、ことりと上履きを脱ぎ捨てる。片方だけ、床にきちんと並べられたそれは、なんだかひどく滑稽であった。制服の裾を捲りあげ、靴下の端に手をかける。ちらりと赤司を見上げれば、彼は観察するかのようにじっくりと緑間の足先を注視していて、思わず頬が熱くなるほど気恥ずかしくなった。真っ白な靴下を一息に脱いでみせると、赤司は緑間の前に跪き、ポケットからおもむろに、あかい小瓶を取り出した。

「おい、赤司。それはなんなのだよ」
「見ての通り、マニキュアだね」
「そんなことはわかっている!そんなもの、どうするつもりだ」

つやつやとした硝子瓶を撫でながら、赤司が緑間を見上げる。瓶の中には、まあるいまなこと、どこまでも同じ色が揺蕩っていた。

「ほしいんだろう?このいろが」

ああ、見抜かれている。
緑間は、さえざえとしたあかいろがほしかった。それを手に入れたところで、赤司に勝てるわけでも、ましてや赤司になれるわけでもない。それでも、喉から手が出るほどにほしかった。
どろりとした液体が、形の良い親指の爪に広がっていく。あれほど望んだ赤が、爪先を染め上げていくさまを、緑間は息を潜めて見つめていた。赤司はいったい、何を考えているのだろう。彼の手は緑間の足を掴んで、丁寧に丁寧に、何度も何度も、爪先に赤を塗りたくる。ふと、赤司にこんなことをさせている自分が、緑間にはひどく烏滸がましいように思えた。本来ならば、ふたりの立ち場は逆であってしかるべきではないだろうか。赤司は強くて正しいのだから、膝を付いて、他人に尽くすなど、するべきではない。掠れた声でそう告げると、赤司は一度だけ顔を上げ、何も言わずにわらった。それきり、ふたりの間に会話はなくなった。
お前に天命を授けるのは、いったいどこの誰なんだい。赤司の言葉が脳裏を蘇る。それから、彼と為した数々の勝負と、先程のじゃんけんを。ふう、と爪先に息を吹き掛けられた瞬間に、すべてのいとが繋がって、緑間はまぶたを伏せた。
ずいぶん長い時間が経ったあと、ようやく出来上がった赤い爪先を満足そうに眺めた赤司が、恭しく、見せ付けるように、そっとくちづける。ああ、もうだめだ。赤司が自分を、崇拝するなど。そんなことは、微塵も思っていないだろうに。情けなく眦を下げて、泣きそうになって、縋るように赤司を見下ろした。けれども赤司は例のごとく、冷ややかなまなざしを緑間に寄越す。こうして手本を見せたのだから、どうしたいのかわかるだろう。そう告げる赤い赤い瞳に緑間は睫毛を震わせて、なめらかな白い頬に付いた赤を拭おうと腕を伸ばした。そうして、吐息のまじった声で、祈るように、赤司を呼んだ。



赤い首輪のモンスタア
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