憎しみと絶望とが、煌々と差す白に落とされた影のように黒く生まれ出でた日のことを、よく憶えている。


ずうっと望んでいた場所だった。中学最後の試合で、手を伸ばし続けてきたその舞台に立てる事は、それこそ奇跡のようなことだった。彼等はその為にずうっと血の滲むような努力を重ね続けていて、まさにその日に、「その為の努力」だけは報われたのだ。

すうと祈るように伸びた指先から、球が放たれる一瞬、その一瞬でコートも客席もしんと静まり返って、誰しもが高く高く放たれた橙に天を仰ぐ。血の滲むような努力は音も無く握り潰されて、その細い息の根はゆっくりと、けれどあまりにもあっけなく息絶える。絶対的な才能の前に、それはどう足掻いたってちっぽけだった。目が眩む程の光の中で唯一、彼等を殺した緑だけはその橙の最高到達点を見届けないうちに、踵を返す。瞬間、音を取り戻す場内。耳を劈く歓声。絶望が、俯いた一人一人の瞼の裏にすらも影を落とす。伏せられた睫毛の下、心臓の奥深くに彼は一人、憎しみを宿らせた。

彼は、高尾和成は、緑間真太郎の左手が大嫌いだった。



練習が終わって、体育館は徐々に閑散としていく。代わりに喧騒は部室へと移って、まあまあ騒がしい。まだ5月とはいえ、バスケの強豪と呼ばれる程だ。誰も彼も疲れきって、流れる汗や熱気は夏場と相違ない。むしろ今の時点でこれなら、夏はもっと蒸すだろう。そろそろ制汗スプレーでも買っておいた方がいいかもしれない。

「高尾ー、スポドリ残ってねぇ?」
「えー!だから1.5じゃ足りねえっつったじゃん!」

スポドリが残っていないらしく、色んな人に聞いて回っているのは確か同じクラスの奴だった筈だ。高尾だって残っているものならば誰かに分けてもらいたい位だが、生憎2リットルの水筒はもう空だ。更に言えば、そんなに馴れ馴れしくされる程親しい覚えはないのだが、それは自分にも覚えがあったので黙っておく。別にこのクラスメイトは実質初対面の奴に馴れ馴れしく下の名前で呼びつける程失礼なことをしているわけでもない。

「てか最近練習キツくね?」
「あー確かに。走り込みばっかだもんな」

クラスメイトの話を適当に流しながら制服に着替えるが、汗で貼りついてとてもやり辛い。少し苛々しながらカッターシャツと格闘していると、ふと、見知った名前が話題に上がったのがわかった。

「てかあいつまだ体育館にいんのかよ」
「一年でレギュラーとったからって、最近調子乗ってるよな」

一年レギュラーと聞いて一瞬どきりとするが、高尾は今部室にいるのだから、おそらくはもう一人のことだろう。そういえばあの目立つ長身は、まだ部室には来ていなかった。彼の荷物のスペースには乱雑に小物やら何やらが置かれていて、エナメルのバックの上にはおそらく彼のものと思われる白いタオルが乗っていた。乾いているから、替えのものだろうか。名前も知らない二軍の先輩たちは、どうやら彼のタオルを隠す相談をしているようだった。このまま部室にいればまず間違いなく巻き込まれることになるだろう。先輩たちの目がちらりとこちらを見やる前に、暑苦しい部室をそっと後にする。

あの試合から数ヶ月が経つが、ぐしゃぐしゃとまだ憎しみや、あの歓声が、心臓にこびりついたまま離れてくれない。緑間を見るたびにそれは膨れ上がって、きりきりとその真っ黒な心臓を締めつけるのだ。圧死してしまいそうに強いそれは、けれど決してその鼓動をせき止めてしまうようなことはなく、代わりに更に黒くどろどろとした憎しみを、今も吐き出し続けている。

そんなことで気が晴れてしまうような、なま易しい感情ではないのだ、これは。




凛と伸びた背中に、さらりと光を受けて輝く緑色の髪。服装を除けば、あの日と寸分も変わらない姿の緑間真太郎が、そこにはいた。ざわめく部員や仮入部の一年生の中で一人、高尾は絶望に打ちひしがれた。その姿と正面から向き合って倒すことのできる敵としてでなく、これから三年間共に戦っていくチームメイトとして、緑間はそこにいたのだ。まるで今までの努力や憎しみが、全部なかったことみたいに、否定されたようだった。だから、彼を苗字で呼ばないのは、決して親しみなどからでなく、むしろその逆だった。尤も、周りはそうと気が付いていないようだけれども。

「高尾ー、お前今日鍵当番なー!あー、鍵なくしたら轢くから」
「あ、はい」

束になった鍵を物騒な言葉と共に乱雑に放ってきたのは、一軍レギュラーの宮地先輩だ。校則ギリギリの蜂蜜色の髪と甘いマスクで女子人気ナンバーワンだが、怖い先輩として部内ではお近づきになりたくない人物ナンバーワンだ。確かに怖い先輩だが、今だって部室に最後まで残っている位だ。少なくとも後輩のタオルを隠すような先輩よりはちゃんとした先輩だろう。

「あ、そーだ」

第二も閉めとけよ。思い出したように付け加えた宮地先輩は、何故かやけに楽しそうな顔をしていた。



バスケ部の部室は本校舎の二階にあるため、体育館からはかなり遠い所にある。更に、下校時刻を過ぎると一階の渡り廊下の鍵が閉められてしまうので、再び体育館に行くには職員室の前を通ってわざわざ生徒玄関の方に回らなければならないので、大変面倒くさい。先輩たちが鍵当番を押し付け合っていたのも今なら納得だ。

夜の校内は昼間とは違う世界のようで、人気のない廊下はひどく不気味だ。職員室にはまだ灯りがついていて、暗闇に慣れていた目には少し眩しすぎた。ちかちかする目を抑えながら、ふと、あの日の試合のことを思い出した。絶望に打ちひしがれながらも、否応なしに上を見せつけられた、あのどこまでも高い弾道。その橙がライトを食らうのは一瞬で、瞳には嫌という程に光を焼き付けられて、所詮見上げる側の人間なのだ、と、何度でも思い知らされた。それは普段の練習でも同じで、けれども、彼が普段の練習でその高弾道を放つのをまだ見たことがなかった。尤も、出来ることならもう一生見たくなんてなかったけれど。


がらんどうの体育館は少しひやりとしていて、人工でない灯りは目にやさしかった。薄い青色の影たちはうつくしく、その影を伸ばしてそのままぴしゃりと重たい扉を閉めてしまうと、ひやりとした空気と、ワックスのかかった床と、ボールの幾つか挟まった天井とが、朝までの数時間一つの空間に閉じ込められるのだ。無機質な音を立ててそれらを閉じ込めたあとで、宮地先輩に言われた第二体育館へと向かう。誰かが消し忘れたのか、まだ煌々と灯りが灯っている。扉を開いた。

「え……、」

すうと祈るように伸びた指先から、球が放たれる一瞬、翡翠色の髪が音もなく舞って、橙が空間を裂いていく。彼はその高弾道の最高到達点を見届けて、また次の橙を構える。ゴール下には数え切れない位にたくさんのボールが転がって、それはきっと、彼の指先から放たれたそれらがライトを食らった数のうち、ほんの一部だ。

ひたむきに努力を重ねる姿に、もうあの黒い感情は生まれなかった。


「緑間っ!」


その長身に駆け寄って、気が付けば大嫌いだったその指先に、キスを落としていた。そして、その白い指先に、あの日に黒く生まれ出た絶望と、憎しみを、静かに葬る。その伏せられた睫毛の下、心臓の奥に、もうそんな感情はいらなかった。







(今までの努力と、きっとこれからも重ねていくであろう努力の為に、賞賛のキスを。)
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