扉を閉める時は逃げる時。
扉を開ける時は勇気に背中を押された時。
両方出来なくて、
最終的に扉を消す方法を選んだわたしに
貴方は…。
「最近さぁ、つまんないよねぇ…」
「あー、わかる。パッとしないよね」
「合コンが唯一の楽しみだったのになぁ」
本日の昼休憩もあと僅かで終りを迎える。
わたしは机の上に置いてある午後の仕事に目を通しながら、背後で交わされている女子社員達の会話をさり気無く聞いていた。
いつもだったら、何かしら手を動かしながらのこの作業。でも今はその書類をただ眺めている事しか出来なかった。
「ほら、原田さん…参加しなくなっちゃってさぁ」
「ねー、盛り上がらない…」
「女でもできたのかな?」
「まさか、だとしたらショック!」
「でも、原田さんって入社からずっと特定の人いないって話じゃない」
「と言うか、本人がそう公言してたし」という言葉が続き、思わずグッと喉が詰る。先程食べたばかりのご飯が、お腹の中で一度ひっくり返った気すらした。
さっきから、聞きたくも無い筈の内容なのに気になってしょうがない。耳を塞いだら不自然だし、だからと言って席を立つのも何だか気が引ける。あと二分で午後の仕事が始まるんだ。と言うか、あなた達はどうしてそこを動かないの…?周りを見れば既に仕事を開始してる人は山ほど居るのに。
泳ぐ視線をそのままに、わたしはいつもより重い空気を吸ったり吐いたり繰り返しているばかりだった。
机の上には、書類と電卓と、何気にお気に入りのボールペン。そしてこの間替えたばかりのスマートフォン。
「お前は可愛い柄よりシックなのが似合うな」と、半ば強引にプレゼントされてしまったライン入りのスマホケースは、わたしの趣味に合致していて思わず驚いた。視界に偶然入ったそれをじっとりと見下ろしていると、後ろから聞こえる会話が不意にピタリと止んだ。
「お前等、そろそろデスク着けよ?残業なんて事になっちまうぞ?折角の休日前だって言うのによ」
「原田さん!」
「お疲れ様ですー!」
「今仕事始めようと思ってたんですよぉ」
きゃあ。と女の子らしい黄色い悲鳴。悲鳴と言っても種類は色々ある。恐怖から来るそれと反射的なもの。今しがた聞いたのは、歓喜の方。
「ねぇ原田さん、最近遊んでくれなくて寂しい」
「ん?あー…まあなぁ、」
「ね、今日合コンあるんですよっ!原田さん来てほしいな?」
「来てくれたら私達嬉しいですっ!」
ビクリと肩が震えて、書類を掴んでいた手に力が入る。
くしゃりと音を立てたそれを見る事もせず、わたしはデスク上のパソコンと自分の間にある空気を見詰めていた。今まで聴覚をこれ程駆使した事はあるんだろうか。そっちに神経を使っているからか、視界は霞が掛かった様にぼんやりと滲んでいる。
いやだ。止めてよ。そんな、甘い声は反則だよ。
喉の手前まで来ているのに、その言葉は音にはならない。
「悪いな、今日は予定があんだ」
「またそれー?」
「もー、ここ最近ずっと予定アリですねぇ、彼女ですか?」
「さあな」
くつくつと含み笑いを添えてやんわりと交わした彼にホッとする反面、良く分からない痛みが胸を刺激する。
「ほらほら、もう始業チャイムだ。散った散った!」
「えええー」
「もぉー!」
ガタガタと人が移動する音が聞こえる。
そこで漸く、自分の身体がガチガチに固まっていた事を知った。
そして、そのまま再び書類に目を通し一刻も早く今の出来事を忘れてしまおうと手を動かした瞬間。
わたしの隣りをふわりと通過するいい匂い。
最近になって知った匂い。
直ぐに好きになった匂い。
自然と顔を上げると、向かいにある自分のデスクへと歩いて行く原田さんの背中が映った。何か手元を弄っているその姿を見ていると、やっぱり胸がぎゅうってして、さっき感じたのとはまた違った痛みが襲ってくる。それが何なのか、わたしは知ってる。
でも言わない。言えない。
わたしよりずっと大きな歩幅でデスクへと辿り着いた原田さんを見届けた後、ふとデスク上に目を落とすと、終始サイレントに設定してあるスマホのディスプレイが呼吸をする様にふわりと起動したのが見えた。
「…?」
既にチャイムは鳴ったけれど、わたしは直ぐそれをスライドさせる。
その画面に映っていたのは新着メールを知らせるアイコン表示と今しがた嗅いだいい匂いの纏い主だったからだ。
『大丈夫だ。言わないよ。今夜楽しみにしてる。』
その簡潔な文章は、普段の彼からしたら丁寧過ぎる程だと思う。
いつもは言葉遣いが少し乱暴な彼だけど、メールになると、句読点も改行もまるで申し分無い。仕事で沢山書類やら伝達メールやらを作成しているからこその癖なんだろうけど、それを知っているわたしは、小さな優越感に浸る事が出来た。
でも、彼は一つ勘違いをしている。
『それなら、いいんです』
慣れないフリックを駆使して、可愛げの無い返信を終えたわたしは一度深呼吸をして仕事に取り掛かった。
わたしと原田さんは現在お付き合い半年目になる。
それは今年の寒い季節、成り行きで身体の関係を持った事から始まる。と言っても、わたしからしたら大事件で。周りから言うに、わたしは途轍もなく「頭が堅く」て「真面目」らしい。特別可愛い訳でもなければ、立ち回りが上手い訳でもない。つまりなんの面白みも無いわたし。
其れなのに、彼はわたしを「いい女」だという。
その言葉に戸惑い、未だに一本線を引いている状態だった。それに拍車を駆ける様にわたしが彼との間に強いたのは。
『誰にもお付き合いしている事を言わないでください』
扉や窓一つ無いくらい頑丈な壁だった。
「っ、」
無意識に原田さんの方を見てしまっていたのか、気付いたら焦点が合致した視界の真ん中に、彼の少しタレ目がちな琥珀色の瞳がわたしをじっと見詰めていた。
急に恐くなったわたしは、ぱっと視線をパソコンへと戻すとぐるぐると回り続ける頭を何とか抑え午後の仕事へと取り掛かったんだ。
本当は、本当は声を大にして言いたい。
彼はわたしの恋人なんだよって。
他の誰にも渡さないんだからって。
この半年間、ずっと、ずっと胸に秘めたままの言葉は、今日も音になる事すら無く心の中で眠りに付くのだろう。可哀相だ。本当に。
そう言えば、この間ベッドの中で唐突に問われた言葉を思い出す。
『なまえはしんどくねぇのか?』
『何が…ですか?』
『いや、会社で俺の周りの事とか、色々と』
『…………それは、女性関係という事でしょうか…』
『あー、そうはっきり言われると言葉が詰るんだが。まぁそんな所だ』
しんどく無い訳がない。
とは思っても、わたしはそれを上手く、そして可愛く表現できる術を知らない。
だから素っ気無く『もう慣れましたし』とか言ってしまうんだ。でもちゃんと知っていた、原田さんがさっきのメールみたいに…わたしに気を使ってくれているのは。
『そうか』と独特なカタチの眉を下げながら苦笑いを零した原田さんの内情も、わたしは未だにくみ取れていない。
可愛い返し方って何だろう。
正解って何だろう。
このままでいいんだろうか。
このまま、モヤモヤして一々周りにいる女の子達にヤキモチを妬いて、一人で潰れていくわたし。
その道を選んだのも、ううん。選ばざるを得なかったのは、わたしだと言うのに。
「みょうじ、ちょっといいか?」
「っ!?は、原田さん、どうしたんですか…?」
「いや、仕事の事で話があんだ。ちょっと付き合え、」
ずっと仕事をしていた気になっていた。
でも手は止り、デスクトップに映るのはさっきから進まずずっと点滅を繰り返すテキストカーソルが情けない顔をしているわたしを見ている様な気がした。
ここでこっそり言葉を交わすのは今日が初めてじゃない。
そして彼からまるで仕事の話を装って呼び出された時は、大抵。
「どうした?ぼーっとしてよ」
「…別に、何でも無いです」
「毎度毎度同じ返事じゃなくて、少しは捻って見ろよ。その程度じゃあ俺はかわせないぜ?」
「…………、」
わたしがこうして扉の内側で一人考え悩んでいる時なんだ。
「今日なまえに残業されると困るんだがなぁ…」
「ああ、レストラン予約してくれたんですよね?大丈夫です、迷惑かけたりしませんよ?」
「お前なぁ…」
ああ、まただ。また呆れさせてしまった。
返答を間違えた。
そう瞬時に思ってしまったわたしの頭にポンと降って来た優しくて大きな手の平。そのまま髪の毛を乱すこと無くスルスルと撫でる原田さんは「そうじゃねぇよ」とオフィスでは聞くことが出来ない位甘い声で笑う。
スカートを握り締めたわたしが不安げに見上げると、首を小さく傾げてその薄い唇を額に落とされる。いつもこの後にわたしが決まって吐くのは「見られたらどうするんですか」と言う冷たいもの。
でも、今日は。
「いいか?良く聞けよ。俺はなぁ、一ヶ月前辺りからずっとうずうずしてる」
「…う、うずうず?」
そんな突拍子も無い事言われると、可愛げが無い以前に返答が見付からない。頭からゆっくりとなぞる様に降りてきた手の平は一つ増えて、わたしの両肩を掴んで落ち着く。原田さんにしては珍しい程の力の入りようで、思わず怒らせてしまったのかと戸惑ったけれど、わたしが敷いた壁越しに映る彼の顔がみるみる赤くなっていくのだから更に驚いてしまった。
「は、原田さん…っ?」
「いくら言っても名前で呼んではくれねぇ、それ所か俺が送らなきゃメールもしてきやしねぇ。加えて言うなら、未だに全部曝け出してもくれねぇ」
「……え、」
「だからずっと言えず仕舞いで今日まで来ちまった」
「それって…つまり、わたしの事もう、」
嫌われたのだろうか。
ああ、わたしが素直にならないから嫌われてしまったんだろうか。どうしよう。どうしたらいい。どうしたら、可愛い女の子になれる?どうしたら原田さんの言ういい女になれる?どうしたら、彼に続く扉は姿を現すの。
じわりと揺れる視界。
大好きで大好きでしょうがない彼の顔が滲んで見えなくなる。
「ご、ごめんなさい…っ、やだ、よ…、原田さん…っ、わたし頑張るから、ちゃんと原田さんの好みの女の子に、なっ、なるから…」
捨てないで。
そう嗚咽交じりに告げようと口を開いた時だった。
一瞬、涙を拭われたと思ったら、次に感じたのは唇に当たる柔らかいもの。
それは原田さんの唇で、突然のそのキスに戸惑い目を見開く事しか出来なかった。わたしは嫌われたんじゃ。反射的に手を伸ばし、いつも捲くっているワイシャツの袖に縋りつくと凄く近くから、こんな言葉が聞こえてきた。
「逆だ、逆」
「…へ?」
その言葉と一緒に感じたのは、大好きな匂いと強く逞しい腕が背に周る感覚。胸元に押し付けられたわたしの頬は、その状況を脳より先に理解して熱を上げた。
「本当は、夜に言うつもりだったんだが、そんな泣き顔見ちまったら今言うしかねぇだろ」
「…っ、は、原田さ、」
「俺はもうお前のこと独り占めしようと思う」
「え?……ええええ!?」
「周りの奴等に隠したりするのが億劫になったとかじゃない、ちゃんと其処に俺の下心がある」
「し、下心っ!?」
一体何を言っているんだ。この人は。
何でそんな真面目な顔で、頬染めて、そんな事を言い出したんだ。
ぽかんと口を開けて、ずっと頬をシャツに埋めていると少しだけトーンを落とした言葉の追撃。その破壊力は、容易く間にある分厚い壁に穴を開けてしまったんだ。
「俺と一緒にならねぇか?いや、なってくれ。俺の…俺だけのモンに…。どうだ?なまえ」
「っ、」
「それなら、さっきみたいによぉ…あんな悲しい顔させたりなんざしねぇ」
「…ふ、うっ、でもわたし、可愛くないし、素直じゃないし…」
「何言ってんだ。それを含めてお前だろ?」
全部合さってこそ、俺が惚れたお前だ。
「どうだ?」
珍しく緊張気味に髪を乱した原田さんは、そわそわと落ち着かない様子であっちを見たりこっちを見たりしている。その度に片方だけ絡められた指先から鼓動が感じられて、思わず笑ってしまった。
今までよりずっと優しいキスをして、
今までよりずっと甘い笑顔で「愛してる」と囁く原田さんは、
今までよりずっと嬉しそうな笑顔で。
「わたしなんかで、よければ…っ、その、お願いします」
「何だ何だ…。結局最後まで言わせるのか…?いいか、良く聞けよ。一度しか言わねえからな。なまえ、」
壊れた壁の外側の世界で…わたしに、
「お前がいいんだよ」と言った
(おーい!就業後早々すまねぇが全員ちゅもーくっ!)
(え、え!?原田さん、何を…っ!?)
(えー突然だが、俺等結婚するからよっ!!)
(え、ちょ、ええええええええええええ!?)
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