「今日からここでお世話になります!みょうじOLさんです!よ、宜しくお願いしますっ!」

にこやかに拍手をしている部署の者達の隅。
朝日も当たらぬ己のデスクの前で立っていた俺は、頭の中で「“ここ”では無く“此方”だろう。そしてお願い“します”では無く“致します”だ」と、周りの歓迎ムードとは真逆の事を一人考え耽っていた。特に嫌悪を込めての思考では無く、昔からの癖と言った方が正しい。きちんとした敬語を話せていない事など、常日頃から取り分け問題視している訳では無いが気になる物は気になる。
そんな事は露知らず、皆からの視線を目一杯浴びている目の前の新入社員は「あはは」と零しながら眉尻を下げ笑っていた。
さらに付言するならば「当社、当部署を…」と、ここまで考えて己の潔癖さに嫌気が指し、俺は早々と本日付けの仕事の準備へと取り掛かった。

今日から部署に新入社員が数名加わった。
ここ最近…特に昨日はその話題でもちきりだった。平助や新八等が挙って「可愛い女子社員チェックしなきゃな!」と馬鹿らしい事この上ない発言をしていたのを思い出し、思わず口元がへの字に曲がる。こいつ等は一体何をしに会社に来ているのだ…。とは思ったが敢えて口にはしない。


「なぁなぁ、はじめ君!」
「…なんだ、」

纏め終わった書類をトントンと机の上で揃えていると、隣りのデスクである平助が此方へ身を乗り出すように耳打ちをして来た。どうやら先程の新入社員数名は、先輩達に連れられ社内説明へと繰り出して行った様だ。しかし周りを見ても同じ事を言えるが、平助や新八に至ってはいつもより顔が緩み切っているのが見て取れる。

毎年こうだ。
この、浮き足立った様な部署の空気にいつまで経っても俺は馴染めないでいる。

「今年はレベル高っっけえよ!しんぱっつぁんも左之さんも言ってた!」
「……そうか。それは良かったではないか。それで少しでもあんた達の内的動機が向上へ向うと言うのなら、俺は歓迎するとしよう」
「……。あー…、だよな。この話題をはじめ君にふったオレが悪かったよ、」

そちらを見もしないで淡々と言い放った俺に、平助は半ば引き攣った表情で「仕事しよ…」と椅子を定位置へと戻した。
先程、顔合わせならぬ簡潔な自己紹介が行われたが、誰も彼も皆初々しさを残し緊張している様に見えた。それは当然の事と言えるが、せめてちゃんとした日本語を喋ってくれと終始思っていた俺に取って、新入社員の見るべく所とは「会社の給料に見合う仕事が出来るか、そうで無いか」たったこれだけだ。

そして、俺に取ってはさらに苦痛が待っている事も知っている。



「さあて!新入社員が入ってから既に一ヶ月経った訳だけど、今日は親睦会と歓迎会を兼ねての飲み会だからねぇえ!!!大いに弄られろ新人っ!!んでは乾杯ー!!!」
「「「かんぱーーーい!」」」

その乾杯の音頭に紛れる様に、はあ、と一つ溜め息を付いた俺は目の前に置かれているビールを眺めその浮かんでは消える泡をなぞり浮かない顔をしていた。
部署の人間は強制参加。まったく、今の時勢に何と言う横暴だ。と以前は頭を抱えていたがこれにももう慣れた。
いつも行われる恒例の歓迎会は、その月の最終金曜日に組み込まれる。
その間約一ヶ月。これを「首切り週間」と呼ぶのだ。今日までに何度もミスをし、何度も涙を流した新入社員達。入社一週間で根を上げ辞めた者も居た。

「にしても減ったよなぁ、」
「うちの部署って結構スパルタ方針だろ?それに部長があの鬼の土方さんだからなぁ、慣れるまで持たない奴が居る方が自然だ」
「そう言う左之さんだって、前はよく土方さんとぶつかってたじゃないですか」
「お、言ったな総司!お前は今でもだろうが」
「あはは、やだなぁ。僕は別に仕事が出来ないからって怒られてる訳じゃ無いですよ」

同じ机で酒を飲んでいる皆がスーツを乱し、リラックスし始めた辺りでそんな話題を持ち掛けてきた。俺達のずっと先、土方さんを含めた先輩方が新入社員の相手をしているのが見て取れる。確かに、その数は入社一日目、ボードの前に並んだ人数より明らかに頭の数が足らない。一人が辞めるとそこからは簡単だった。まるで芋づる式に辞表を提出する者達。それを立て続けに受け取る土方さんの胃の痛む音すら聞こえて来る程だった。

「はじめ君も何人か泣かせてたよね」

何故か退社後になるとネクタイをきっちりし服装を正す総司が、ビールを傾けながら俺の方を見てにやにやと吐き捨てる。それに「斎藤は今期の人気総取りだったもんな」と暢気に笑うのは、既に顔中赤くしている新八だ。

「ミスをし、例え些細な物でもそこで甘やかしてはあいつ等の為にならん。俺は当然の指摘をしたまでだが…」
「普段物静かなだけあって、女の子達驚いたって言うより凍りついてた」
「あれ位で泣くなど…それこそ俺には理解が出来ぬ」
「あ、でもさ!あいつは泣かなかったよな、」

楽しい場でそれなりに振る舞う術を知らない俺に苦笑いが集ったところで、平助が思いついた様に声を上げる。そして「あー…えっと、」とあちら側のテーブルを眺めた総司が、面白そうに目を細めてその名を零す。

「みょうじOLさんちゃん、だっけ」

釣られて俺もそちらに視線を向けると、前髪の隙間から見えたのは既に出来上がっているだろう者達の中で、赤い顔もせず先輩方の話に相槌を打っているみょうじがいた。

彼女もこの一ヶ月の間に数え切れない位のミスをした。そしてその度に上から尻拭いを命じられた俺は、いつも通りの対処の仕方をした。しかし、それは辞めていった者達と同じ程度。と言っても、俺に取っては叱った内にも入らぬ物だったのだが…、他の者達とは違い、

彼女は今この場に居る。

「…あれくらい、当然だろう」
「いやいや、オレでも未だにはじめ君に怒られるとへこむし…。強ぇよ、みょうじは」
「そうだよねぇ、女の子って大概下心あって寄って来るから、強く言うと直ぐ泣いちゃうけど、彼女は違うみたいだし」
「あん時だってよぉ!見てるこっちがハラハラしたよなぁ。なのにみょうじちゃんは泣かなかった。くぅう、根性あるじゃねぇか!可愛いしよぉ!」
「新八、お前が言うと何か犯罪臭ぇから止めとけ…」

「……………、」

そう笑う皆は「あいつは伸びるぞ」と口を揃えて評価しているが、俺は知っている。
あいつのデスクの上はまるでファンシーショップかと問いたくなる位、目が痛くなる物達で溢れ返っている。入社して間も無くであそこまでデスクを好き放題した者を俺はみょうじ意外に知らぬ。
あと、いつも何かしら菓子類を隠し持って、隙さえあればこっそり食べているのも知っている。学生気分が抜けないのだろうが、あれは叱るべきか何度も考えた。
そして今も、先輩方の話を聞いているふりをしているが、あれは別ごとを考えているだろう。目が引っ切り無しにメニュー表へと泳いでいるし、ビールを持っては置いて、持っては置いてを繰り返しているのだ。

しかし、
彼女は今日まで。確かに泣かなかった。

平助達がこう言う位、俺の叱り方は人とは多少ながら違っていると思う。そう今になって思うのは、左之や総司…平助や新八に叱られ泣いている者は実際には居ないからだ。
退社した者は全て俺が指導した者ばかりだとは気付きたくはなかったが、事実だった。

『斎藤さんっ、本日は大変申し訳ございませんでしたっ!』

全て収まった後、俺に改めて侘びを入れに訪れたのも、
みょうじ、ただ一人だった。

そして「次から気を付ければ良い」と真顔で流した俺に、今一度頭を下げ「はい、ありがとうございます!以後気をつけます」と礼を言ったのも、彼女だった。いつの間にか、俺の言う正しい日本語を身につけて。


そう思い出し顔を上げると周りは既に別の話題で盛り上がっており、俺はどこか身体がじんわりと緩んでいくのを感じていた。それに伴いまわる酒。
今日はどうしてだろうか、いつも退屈で飲んでいる酒の味すら覚えていない事が多いのに、一つ気付けただけで一気に舌が踊る様な気すらした。

普段の行いは多目に見ればの話だが、確かに彼女は他の者とは違い本来在るべき「芯」が、きちんと備わっているのかも知れないと…そう思った。

「……、」

視線を再びみょうじの方へ向けると、その席はいつの間にか空になっていた。テーブルの上には同じく空になったグラスがぽつんと置かれている。
一瞬「帰ってしまったのか」とも思ったが良く見ると足元には彼女が愛用している白いスプリングコートと彼女らしい色使いの鞄が置かれていた。

「総司、手洗いに入ってくる、荷物を見ていてくれ」
「はいはい、別に一々報告するなんてはじめ君らしくないよ、荷物くらい見ててあげるから」
「…茶化すな。失礼する」

手を振る総司を背に、俺は少し熱くなった身体を起こして貸切にしていた座敷を後にした。廊下には部屋毎に沢山の靴が並んでいて、やはり五月に入るまでは何処も歓迎会ラッシュなのだな。と感慨耽った。俺も数年前には新人としてこの場に居たのだ。

ぼんやりとした思考のまま、店のスリッパではなく己の革靴に足を通した俺は特に行きたい訳でもない手洗いへと向う。
みょうじも、手洗いだろうか。と女性に取っては考えられたくも無いだろう事を思い浮かべながら角を曲がった時だった。


「ぶごぉっ!!」
「っ、!?」

ネクタイを付けたままの俺の胸元に、何が勢い良く埋まる感覚。そして人には在り得ない悲鳴と腕を強く掴まれる感触が同時に降りかかった。

「ごめんなさ…、って…斎藤さん」
「………あんたか、」

いつもの俺ならば、ここで過剰に跳ね除ける所だろう距離。顔と顔が近い上に接触している部位がありすぎる。
しかし、特に酔っている様子も見られないみょうじの顔を俺はまじまじと見下ろしているだけだった。当の本人もそのままの体制で俺を見上げ、首を傾げるばかり。

「離してはくれぬだろうか、」
「わ、すみませんっ!!って…わたし!あ、あ、」
「どうした」
「ごめんなさい…、シャツにファンデが…っ、うあああああ、」

暫くお互い見上げ見下ろして居たが、俺が小さく指摘するとバッと身を起こし慌てだすみょうじ。その見詰める視線の先にあったのは、白のワイシャツに薄っすらと付いた肌色の跡だった。思い切り顔をぶつけていたから、恐らく擦れて付いたのだろう。

「ごめんなさいいいい!!!ちょ、弁償!弁償しますっ!」
「いや、いい。気にするな…それより、」
「げぇえ!これブランドもんじゃないですかぁああ!ひぃいい初給与飛ぶぅう!」
「お、おい!引っ張るな!何故掴むのだ!?」

何故か俺の胸座を掴み、女とは思えぬ形相で取り乱すみょうじ。彼女の手に寄って俺のシャツは乱れ、既に引きずり出されてしまっている。このままでは剥かれると咄嗟に思った俺の行動は早かった。
彼女の右手を己の左手で掴み、逆の手で肩を押すと「みょうじ」と彼女の名前を呼んでみる。幾ら厳しく叱っても涙一つも見せなかった奴が、今俺のシャツを化粧品で汚してしまった位で涙目になっている。まったく理解が出来ない。
やっと大人しくなったみょうじは、俺を気まずそうに見上げてからゆっくりと俯いた。

「わたし、斎藤さんにもうこれ以上要らぬ迷惑掛けたくないんです…」
「は…、」
「この一ヶ月…斎藤さんに色々と教えて頂けて、わたし感謝しているんです。とても」
「俺、に…」

今度は俺が目を丸くする番だった。

「右も左も解らなくて、とんでもないミス沢山しちゃって…。でも斎藤さんちゃんと一から教えてくれるし…最後まで見捨てずに助力してくださいました。凄く尊敬しています、かっこいいです!」
「それは、上から…」


上司命令だから。仕方なく。

と、言うのは簡単だったが、何故かこの時。
俺は、その言葉を詰る息と共に飲み下していた。


「わたしまだまだ斎藤さんから教えて貰いたい事一杯あるんですよ、だからこんな事で嫌われたく無いです…」

しゅんと肩を竦めたみょうじの腕と肩を掴んだまま、俺は情けなく口を開け佇むしか出来なかった。聞こえるのは、あちらこちらから聞こえてくる楽しそうな人の笑い声と、己の鼓動のみ。
それは、いつもよりずっと早く脈打ち、それ故に眩暈さえ感じさせたのだ。

「あ、あと加えて言うなら超イケメンですね!パソコンする時とかに掛けてる眼鏡とか、もうほんっとあざと…じゃない、えっと、」
「………あんたは、酔っているのか、」
「へ?」


一体何を言っているのだ。
俺は、隠れて就業中に菓子など食わん。仕事をするべきデスクを小物で埋めたりはしない。俺が新人の頃は、もっと…もっと。


しかし、今みょうじが俺に放った言葉に
俺は確かに、頭を持っていかれたのだ。


「いえ、酔ってはいないと思います。…っていうか、皆さんなんであんな控えめなの…?土方部長に至っては下戸…、」
「は?」
「あ、いえいえ。こっちの話ですよ!」
「………いや、ありがとう。気をつけて戻れ、」
「え?ありがとう?わたし何も、って…斎藤さん!?」
「失礼する」


突然熱を上げた両手を振り解く様に離しその場から逃げる俺の耳に、戸惑うみょうじの声が届き脳内へと伝わっていく。
歩く速度は、外回りの時よりずっと早く、酒の所為で上手く動かせない。縺れそうになる歩も気にせず雪崩れ込む様に手洗い場へと飛び込むと、そのまま冷たい壁を背に俺は一気にその場で脱力した。
口元を覆い、目を閉じると、ずるずると足元から崩れていく。

「…不覚、とはこの事を言うのだろうか、」

形振り構わずその場で腰を降ろすと目の前の洗面鏡が、顔を赤くし情け無い顔をしている俺を鮮明に捕らえていた。


嬉しい。
とても、嬉しいのだ。


「みょうじに、救われたのか…。俺は、」


己が間違っているとは思わなかったが、後に残ったのは少しの罪悪感と虚無感。
月日を重ねる毎に積み重なっていたそれは、いつの間にか目を逸らせない位大きくなって、俺を一層卑屈にさせた。
これを吐き出す場が会社には無いに等しかった俺にとって、初めて貰えた安心と信頼。それは昔馴染みのあいつ等とは、また違った場所からの救いだった。


「みょうじ、OLさん…」


いつか、もう少し歩み寄れる勇気が俺にあるとしたら、
飲みにでも誘ってみよう。


「しかし、酒は弱そうだ」


立ち上がり、シャツに付いた肌色を見下ろし小さく笑った。



芽吹く

(…誰か、居るのか?)
(あれ、斎藤さん?何してるんですか…こんな時間に)
(その声は…みょうじか、)
(はい、って言うか眩しい!)

(す、すまん)


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