「あ、ごめんね…あの、その日はちょっと…」
「…そうか、」
「あ!でもね、来週の金曜と土曜は空いてるからデートしよう?」
「分かった…予定を開けておく」

受話器から聞こえてくるその声はどこか慌てていて、更に今は遅い時間だと言うのに関わらず背後から喧騒が聞こえてくる。俺はミシと音を立てて軋んだ己のスマートフォンを耳に寄せたまま、テレビのリモコンを手に取り耳障りなその画面を黒く閉じた。
それと同時に「ごめんね、もう切るね」と忙しなく切られた通話に、俺は目を細め溜め息をつく。
俺の息が吐ききられる前に、小さな電子音が聞こえ勝手に待ち受け画面に変わったスマートフォンを耳に宛てたまま、ぼんやりと切られたばかりのテレビに目を向けると、そこには疲れた顔でこちらを見る俺が映っていた。

見下ろすのは初期設定のシンプルな壁紙。
無意識に操作していたのは、いつもなまえに電話を掛ける一連の作業で。今し方切ったばかりだと言うのに心は晴れず、もう一度通話のボタンを押してしまいそうになった。

「もうかれこれ一月…この調子だ、」

いつもは丁寧に決められた場所に置かれるスマートフォンをぽんとソファに投げ込むと、仕事の疲れがどっと押し寄せ、「寝るか」と独り言を溢し目を閉じた。

想いが通じ心も身体も繋がったのだと思っていた俺と彼女の間には、どれ程の距離があると言うのだろうか。一分一秒でも長く話して居たいと柄にも無く思っている俺は、ここ最近余り会えて居ないなまえが今何処に居て、何をしているのか、それが解らない事に小さな陰りを感じていた。

一ヶ月会えない事なんて、付き合い始めてもう直ぐ三年…初めての事だった。

「俺だけが、そうなのだろうか…」

重い身体をベッドに沈めると、俺は痛む頭を押さえ込む様にして眠りに着いた。
こうして考えている事自体が煩わしくて仕方が無い。今までの人生に置いて余り重要視していなかった物が頭を支配する過程が邪魔に感じる。この間までなんら問題無かった筈の交際期間。どうして今なのだ。何故今更。

「…頭が、痛い」

そのまま足元から沈んでいく感覚に身を委ね、夢の世界へ逃げ込もうとする俺は明日つぶれてしまった休日をどう誤魔化し過ごすか考えていた。目を閉じれば、その日溜りになまえの笑顔があった。


俺達の足は、揃わない。





「斎藤くん、じゃあお願いするよ」
「はい。お疲れ様でした」
「じゃあ、お先に」

上司に下げていた頭を上げるとそのまま右手に嵌めている腕時計を見下ろす。
今日は久し振りになまえと予定していた金曜日の就業時間外だ。既に時計の針は約束の時間まであと十五分と迫っていた。しかし今し方帰っていった上司に、書類の纏め作業を頼まれ帰るに帰れない状況に陥っていた。
今週一週間内になまえと十分な繋がりは望めなかった。それどころか、電話は出ない、メールは返って来ない。返って来たとしても夜中の寝ている時間帯で、それに朝一番に返事をするも、やはりそれに対するメールが返って来た時にはまた深夜帯に食い込むと事の繰り返しだった。「あんたは一体何をやっているのだ」と言いそうになる口を結んで平然を装う俺は、少しこの関係に限界を感じていたのかもしれない。
己のデスクに腰を降ろすとそのまま作業画面と向かい合う。誰も居なくなったオフィスはとても静かで、家では考えない様にしていた物がどこからか溢れ出し俺の脳を犯す。

このまま終わらせてしまえば、これ程考えなくても良くなるだろうか。
なまえと別れてまた一人になれば、楽に…なれるのだろうか。

これ程に自分が恋愛に執着し、追い込まれている事自体が

「…煩わしいのだ、」

デスクの傍らに置いてあったスマートフォンにメール着信のランプが点ったのが視界の隅に映り、それを置いたまま指でスライドする。
そのボックスに並んだ名前を見るだけで、心が痛む。顔を顰めてしまいそうになる、今直ぐ仕事も放り出して、その身体に飛び込みたくなる。

俺は、こんなにも…。

『早く着いちゃった、はじめはもう電車かな?最寄駅で待ってるね』

俺が余り目に痛い物が好きじゃないのを知っているからか、顔文字も絵文字もないシンプルなメールが飛び込んできて、思わず電話帳を開きそうになった。
しかしそれと同じくらい、身体に広がるのは「疲労感」
考える事に疲れ切っているらしい俺の身体は、ハッキリしない思考である結論を叩き出した。

恐らく、なまえも俺より優先する事が出来たのだろう。
気まずい故に、言い出せないのだろう。
本当は、煩わしく思っているのだろう。

「…なまえ、」

沢山言いたい事や聞きたい事があった筈だが、俺の口から出た音は愛しい者の名前。
そして、震える指が拙い操作で作成したのは、「別れよう、お互いにそれがいい」と言う、冷たい文字の羅列だった。

俺はその返事を見たく等無くて、そのまま電源を切り足元にあるビジネスバッグにそれを捻じ込み封をした。
もう此れで考えなくて、いいのだ。ずっと収まらない頭痛が一層重く俺を殴りつけた気がしたが、それにも知らないフリをし、仕事に取り掛かった。



「もう、日が変わるのか…」

それから仕事を終え会社を出た時には既に電車もあと数本と言う時間になっていた。
この頃暖かくなってきたとは言え、朝夜は冷え込む故春物のコートでは少し肌寒かった。重い足と、先程よりずっと痛む頭は進む事も考える事も止めず、ただ真っ直ぐ前へと進んでいく。その先には何も無いのに。それでも、止る事をしなかったのは、別れを切り出した己を正当化する為だったのかもしれぬ。
帰る時鞄の中で、電源を入れないまま沈黙を守る携帯機器を手に取ったがそのまま何をするでも無くポケットへと仕舞い込んだ。

進むにつれ近付く『最寄り駅』
本日の待ち合わせ場所だった。

俺はなまえが俺と居る事で幸せを感じてくれたらそれだけで生まれてきて良かったと思えるまでに彼女を愛していた。己の全てで欲していたのだ。しかし、今まで感じた事も無い感情を知った頭は、それを失う事を恐れ臆病になり、知る前にいっその事…とその想いを手離した。


しかし、


「……何故、っ」


しかし。


「…なまえ、」


滲む視界に映るのは、待ち合わせ場所に一人で佇むなまえの姿を映していた。

身動きが取れない俺は、行き交う人混みの中に紛れるようにその横顔を見ていた。その小さな身体に駆け寄り、肩を掴み「どうしてだ」と問う事も、何事も無かったかの様にその場を離れる事すら出来ず、本当に佇むのみ。
その間にも時間は過ぎて行く、約束の時間は18時。そして今はもう23時を遠の昔に過ぎているのだ。まさか、ずっと。ここで…。

すっかり動かなくなってしまった足とは反して、俺の手はゆっくりコートのポケットに差し込まれた。直ぐに触れた無機物を掴み、長い前髪で顔を隠す様に俯くとそのままサイドボタンを長押しする。間も無く小さな光りと共に電源が入ったそれは、少しぼやけて見えた。
いつもの待ちうけが映るまでの時間が途轍もなく長く感じた。「早く」と願うもゆっくりと電波が入り、俺の手の中で一度震えた。そして、

「…っ、」

顔を上げればする其処になまえが居る。
一月ぶりに見た彼女は少しだけ痩せていた。

通常画面になったと同時、3件の着信通知と、一通のメールが届いた。
それを見た瞬間、今まで固まって動かなかった地を離れ…そのままなまえの身体に向って駆け出していた。


「なまえっ!」


思い切りその腕に抱き留めると、突然の不意打ちに小さな悲鳴を上げたなまえは泣き跡を残す瞳を此方に向け俺の名前を一度呼んだ。

「はじめ、っ」
「すまない…っ、すまない、…っす、まない、なまえ」
「よかった、来てくれて」

抱き留めると、やはり服越しに少し骨が触れ眉間に皺が寄ったが、鼻腔を掠めたなまえの匂いを感じた途端酷かった頭痛は、雑踏と共に消えていく。一層腕に力を込め抱き締め、彼女の肩に顔を埋め謝り続ける俺の背にも触れる様に添えられた手の平。
なまえの身体は小さく震えていた。

「一月なかなか連絡できなくて…逢えなくてごめん」
「俺…も、あのような、」
「わたし、今日の為にちょっとやる事あって、ね」
「やる、こと…?」

周りから物珍しそうに投げられる視線を感じつつ身体をそっと離すと、俺を見上げ微笑むなまえ。その手には小さな小袋が提げられている。一体何なのだろう。と一度鼻を啜った俺の胸に「はい」と押し付けられたのは、恐らくここ一月分の訳。

「今日で、付き合って三年だよ。記念日だよ」
「今日、が…、これは、」
「…いつも全力で愛してくれるお礼、」
「っ、」

高級感漂う包装には誰でも知り得ているだろうブランド名と「これからもよろしくおねがいします」と書かれたメッセージカード。
聞くと、己の給料では手が届かなかったからと一月の間掛け持ちで遅くまでバイトをしていたのだと笑ったなまえ。驚かせたかったから言えなかったのだと、そう濡れた睫毛を伏せ笑う彼女が、とても可愛らしく、愛しく、そして心の底から欲しかった。

「ありがとう、大切に…する。これからも、俺と、」
「うん…、良かった。本当に、良かった」
「しかし、俺はあんたに何も…」
「ううん、」

再び俺の胸に擦り寄ったなまえは、とても幸せそうに呟いた。


「はじめがこうして並んでくれるだけでわたしは幸せ。これからもずっと、」


小袋を受け取った手の平で額を押さえながら、俺は「ああ、」と頷くのが精一杯だった。これからずっと、何が待ち受けて居ようともなまえと足を並べて未来へと歩いて行く。必ず。
そう心に誓い今一度その身体を抱き締めると、泣き出しそうななまえの手を取り歩き出した。

絶望のどん底に居たらしい俺に届いたいつも通りのシンプルなメールには、たった一列。そこには彼女の想いが無限大に詰め込まれていた。


『ここでずっと待っているから、抱き締めて』


あの時、足が動いて

本当によかった。





並んだ足音

(はじめは意外にも寂しがりだったんだ…覚えておこう、)
(………そう言うあんたは、)
(凄い寂しかったよ。バイトきついし、メール返す前に寝落ちする生活してました…)
(だが痩せすぎだ。今日から…俺が、その、)
(?)
(ふ、太ってしまうくらいに、その…幸せに…っ、す)
(太…っ!?)



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