『ならば、あんたの言う様に…何時も自分だけを見てくれる者を探せばいいだろう』

そう言われた時、思い知った。
自分はまだまだ何も知らない子供なのだと。

でも、その境界線ってどこなのかな…。



車内に流れている音楽は、わたしが付き合いだした当初斎藤さんに進めた物だ。
いつもより小さい音で流れるその音楽は何回聞いても素敵だと思えて居たのに、今はまったく頭に入ってこない。
もう陽も暮れだして辺りは綺麗なオレンジ色。これも全然響かない。隣りには大好きな斎藤さんが真っ直ぐ前を見てハンドルを握っている。でも、その横顔を見る事が出来ないでいた。

まだ陽が落ちると肌寒い季節「海が見たい!あと斎藤さんとずっと一緒に居たいっ!」と興奮気味に言ったのはわたしだった。
今日は、ここ最近お仕事がずっと忙しくて会えなかった斎藤さんも久し振りの休日で「どこへ行きたい」と問われて直ぐにそう答えたんだ。

わたしが高校を卒業して大学生になった四月は一度も逢えなかった。
付き合いだしたのはもっと前だけど「やはり公衆道徳を守るのは当然の事だ」と、恋人にも関わらずデートの日は十時前には帰されてたし、大学生になったわたしはこれからの彼との関係に少なからず期待をしていた。きっと沢山気を使わせてしまったから、これからは堂々と一緒に居られる。なんてはしゃいでいたんだ。

そしてゴールデンウィークも過ぎ、わたしも慣れない一人暮らしに悪戦苦闘しなくなった頃…仕事が落ち着いたと言う斎藤さんからデートのお誘いがあった時は泣いて喜んだ。
今日はわたしの希望通り海にも連れて行ってくれたし、美味しい物を二人で食べて沢山お話してそろそろ夜、と言う時彼の携帯が音を立ててわたしから斎藤さんを引き離した。


「…なまえ、いつまで不貞腐れているつもりだ、」
「……………、」
「黙って居ては何も分からん。言いたい事があるなら口で言えばいいだろう」
「………もう、いいよ」

斎藤さんは大人だ。
いつも表情を崩さないで、何でも出来て、格好良くて、わたしには勿体無い人。
そもそもこの人との関係は、わたしが高校生だった頃電車で毎日顔を会わせていて、斎藤さんはわたしの事なんて気にもしてなかったけど、思い切ってアタックして…一度は断られたけどそれからも挫けず付きまとった。ストーカーみたいだけど、それでも簡単には諦め切れなくて、何度も何度も話しかける内に斎藤さんが折れてくれた。
普段、わたしが何を話しても「そうか」と優しく微笑んでくれて、きっと斎藤さんからしたらこんな小娘の話聞いていても面白くも何ともなかったと思う。でも、ちゃんと聞いて、笑ってくれたし、違う事は違うと教えてくれた。

そんな彼は、
さっきも言ったけど……大人なんだ。

「仕方ないだろう。以前より予定していは居たが今日は急遽決まった話だったのだ、しかし今までも何度も同じ事はあった筈だが」
「……そうだね、」
「今回は送別会も兼ねての飲み会なのだ。俺が欠ける訳にはいかんだろう」
「うん。だから、分かったって…」
「……………、」

はあ、と重たい車内にもっと重たい斎藤さんの溜め息が零れた。

さっきの着信は、斎藤さんの会社の同僚さんでどうやら急遽飲み会をやるから来て欲しいとのお誘いだった。「…飲み会、」と斎藤さんが気まずそうに溢したのをわたしの耳は鮮明に拾い上げて、その瞬間グッと膝の上に置いた拳に力が入って汗が滲んだのが分かった。
確かにこんな事珍しくも何ともない。今までだって「本日は部署で飲み会がある故、帰宅が遅くなる」とかは電話口で聞いていたし…斎藤さんはお酒が大好きだから「飲みすぎない様にね」位で、こんなにも重い空気になんてなった事がなかった。

でも

「わかった、少し遅れるが…今から向う」と、参加する事を選んだ斎藤さんにわたしは窓の外を見たまま目を見開いた。

だって、今日は…わたしと…と、そう思うのは…。
想ってしまうのは、わたしがまだ子供だから?

そしてそのまま車は帰路を辿る。
少し遠出をして県外に出ていたから、ここからだと最低でも一時間半は掛かるだろう。それでも車を飛ばし、家路に急ごうとする斎藤さんにわたしはショックを隠せなかった。

わたし、もう高校生じゃないんだよ。
もうなんの心配もないんだよ。
夜早く帰られなくちゃいけないなんて決まり無くなったんだよ。
ねえ、斎藤さん。子ども扱いしないでよ。ちゃんとわたしを見てよ。

「大人には大人の付き合いがある」これはテレビ等でも良く聞く言葉だ。
別に受話器越しから聞こえてきた同僚さんの声が女の人だった事も、行きよりずっと早いスピードで走る車も、いつもより少し低めな斎藤さんの声も…その一言で納得が出来る。

頭では納得出来ている筈なのに、わたしの気持ちは別の方向へと引き摺られていくんだ。
もっと一緒に居たい。もっと沢山恋人らしい事がしたい。もっと、もっと。とどんどん利己心が剥き出しになっていく。斎藤さんきっと困ってる。でも、飲み会を優先されたのが何より悲しかったんだ。

再び沈黙が降りた車内に、ぽつりと独り言の様な声が落ちた。


「…ずっと黙ったまま隣りに居られると、気分が滅入る」
「…っ、」


そりゃ、そうだ。
飲み会一つでここまで不機嫌になったわたしを見て斎藤さんは正直がっかりしたと思う。
彼にとっての日常はわたしとの時間だけじゃないし、お仕事だって大切にして毎日頑張っている人だから。悠々自適に過ごすわたしとはやっぱり何年も積み重ねた大人の時間が違う。だからこそ、わたしに取ってその言葉は痛かったし辛かった。ジンとお腹の辺りが引き攣って目頭がむずむずする。
それでも泣くもんか。と歯を食い縛ったわたしは喉元まで出かかった嗚咽を飲み込み顔を上げた。

「ごめんごめん!嘘、ちょっと意地悪しようかと思っただけだよ。余りにも迷いがなかったから、悔しくて!」
「……………、」
「そうだよね、斎藤さんだってわたしの事ばかり見てられないよね!やだ、本気にした?ごめんなさいっ」

無理矢理笑顔を作り斎藤さんを見るけど、その表情は笑うどころか一層険しさが増していて、見た事無い位の冷たい目をして前を見据えていた。
何も言わない斎藤さん。

やだ、どうしよう。
嫌われたくない。

背中に滲む冷や汗を誤魔化す様に、口元を上げると思ってもいない言葉が絶えず溢れては車内に飛んでいった。

「でも、いいなぁー!飲み会!わたしまだ子供だからお酒飲めないし、きっと楽しいんだろうなぁ」
「……………、」
「ずっと一緒に居るなんて無理な話だよね、ちょっとだけ期待しちゃったよ。あはは、馬鹿だなぁ、わたし」
「…………、」

空しく響くわたしの笑い声にも何の反応も見せない斎藤さんは、やっぱり難しい顔をしたまま何も言わなかった。
段々わたしの笑い声も小さくなっていき、先程堪えた筈の何かが込み上げてくる感覚。

再び黙ってしまったわたしの耳に、この時小さくお気に入りのバンドの曲が入ってきた。


「ならば、あんたの言う様に…何時も自分だけを見てくれる者を探せばいいだろう」
「え、」
「俺では役不足だと言うのだろう。それは俺とて思っている、いつも待たせてばかりの俺より…誰かあんたの隣りにいつも居てくれる男を捜せば、」
「…っ!」

息の仕方を忘れた。

頭が真っ白になって、身体の奥、ずっとずっと深い場所にあるモノを思い切り貫かれた感覚がした。
こちらも見ずに淡々と話す斎藤さんの顔はいつもと微量さの違いだが冷たいまま、そうわたしに告げた。いつの間にか運転席側の窓が開いていて、外から入り込む風が斎藤さんの前髪を揺らしその表情を隠したのを、わたしはじっと固まったまま見ていた。


「…わかりました、そうします」
「…は、」

でも、身体だけは動いていて手は助手席のインナーハンドルへと伸びていた。
別に死にたい訳じゃない。ただ、ついに零れた涙を見られたくなくて、今すぐこの場から居なくなりたくて、斎藤さんの言葉をそれ以上聞きたくなくて。

でも次の瞬間、大きなブレーキの音とタイヤが地面を擦る音と、すっかりして居る事を忘れていたシートベルトが大きく軋む音がわたしに届いた。


「なまえっ!!」
「やだ、っ、もういい!歩いて帰るから降ろしてくださいっ!」
「何を言っている!?少し落ち着けっ!」
「わたしは、まだ子供だから!大人な斎藤さんの言ってる事が正しくてもっ、それでもまだ追いつけないんですっ!どれだけ、想っても……、」

おいつけないんです。

崩れる様に頭を下げると、目の前に広がるのはこの日の為に買ったワンピースの鮮やかなオレンジで。絶えず降って来る雫がその色を濃く染めていく。
最後の言葉はもう声になったのか、ならなかったのか自分でも分からなかったし、わたしの肩を掴んで居る斎藤さんが一体どんな表情でわたしを見ているのか分からない。
ここは幸い車通りの少ない道路だったらしく、道のど真ん中にあるのは急ブレーキをかけた斎藤さんの愛車だけ。

これじゃあ、本当に駄々を捏ねる子供だ。
ボロボロと泣きながらただそこに居るだけのわたしと居るより、飲み会の方が楽しいに決まってる。


「…どうして、そうすると言った」
「…っえ、?」
「あんたは此れしきの喧嘩一つで他の男に鞍替えが出来るのか?」
「…なっ!?」

再び降って来た声は、いつもより感情が篭められていて思わず顔を上げてしまった。貴方がそう言ったんじゃない!と悲しいより怒りが先に来てしまって、涙でぐちゃぐちゃなのも構わず運転席側を見上げると、

今度は、怒気を孕んだ声とは裏腹にそこにあった表情に、頭が真っ白になる番だった。

「……すまない。俺とてなまえとの時間は足りぬ。どうして今日なのだと、俺も、」
「………」


慌てた様な、悲しそうな、必死な様な。
そんなよく分からない顔をした大人がそこに居た。


「分かって貰えると俺も構えていた故、あんたが怒っている理由が分からず苛立ってしまった…本当にすまない」
「…だからって、」
「ああ、あれは…流石に言い過ぎた、だがっ!あんたもあんただ!」
「え!?」
「そもそも俺が他の男を探せと言ったらあんたは探すのか!?ならば俺が無理無体な要求をすればあんたはそれに従うのか!?」
「は、はぁあっ!?」

珍しく声を張り上げてわたしに言葉を浴びせる斎藤さんの顔は、今まで見た事も無い位崩れていてまるで普段の落ち着きが無い。
そう例えば、不祥事を起こした政治家とかが報道陣に詰め寄られて慌てふためいた末、逆ギレするみたいな…。そんな、感じで…。

「大体それに関しては俺だってあんたに言いたい事が山の様にあるのだっ!この間だって電話した時間が遅く家に居るのだろうと思っていたらまだ外だと言っていたではないか!」
「ちょ、それいつの話ですか!?だからもう門限無くなったって言ったじゃないですかっ!」
「門限が無くなった途端夜遊びかっ!俺が共に居るなら未だしも…どれだけ俺が、我慢をしていたと思っ……っ!」
「…え、」

斎藤さんが、そこまで言ってビクリと肩を強張らせたのが見えた。
いつの間にかわたしの涙は止まっていて、二人見合ったままポカンと口を開けていた。
再び静かになった車内には、顔を赤くした斎藤さんがまた真っ直ぐ身体を直し、俯いたままサイドにあるメインスイッチを操作し助手席のドアをロックした音が響いた。
「少し話しをしよう」とそれだけ告げた斎藤さんは、静かに車を走らせると暫くして見つけた路地に車を止めた。


「仕事ばかり忙しく、なまえを構ってやれなかった事は謝ろう。すまなかった」
「……はい、」
「だが、これも俺のやらなくては成らぬ事柄なのだ」
「分かっているつもりでした…」

いつの間にか辺りは真っ暗。
先程斎藤さんの携帯が鳴ってから既に二時間は経過していると思う。それでもわたしの心は「鳴らないで」と願い、ずっと恐れている。
取り乱していたわたしも斎藤さんもやっと落ち着いて、静寂の中静かに話を始めた。

「毎日早朝に起き、電車に乗り、仕事へ向う。そして一日パソコンと向き合い、上に頭を下げ、仕事を終えると、くたくたになって帰宅する」
「…………、」
「それが今まで当然の様にこなして来た俺なりの“大人の日常”だった」
「うん、」

いつも仕事が終りわたしに真っ先に電話をくれる斎藤さんの声はやっぱり疲れているし、だからこそ逢いたいなんて言えなかった。

「だが…あんたが、なまえがそんな俺の支えになった」
「…!」
「毎日過ぎる何の変哲も無い日常に、安らぎをくれた」
「わたし、子供だよ…」
「そう言えば、俺が付き合うと言った時も同じ顔で同じ事を聞いてきたな、」
「…だって、あんな事で取り乱して、困らせて…」

わたしがまた泣きそうな顔をして俯くと、斎藤さんはいつもくれる優しい顔で握りっぱなしだったハンドルを離した左手でわたしの頭をフワリと撫でた。

「あんたに取っては、“あんな事”では無かったのだろう…?」
「…っ、うん、」
「すまなかった。俺も、思わずとは言え…泣かせてしまったな」
「わ、わたし頑張るっ!ちゃんと大人に近づける様に頑張るっ!此れっきり斎藤さん困らせたりしないよ!」
「…………、いや、」

頭に置いてあった左手を降ろし、わたしのシートベルトをカチリと外した斎藤さんは自分はベルトをしたまま此方に身体を倒して、また泣き出しそうなわたしを優しく抱き締めてくれた。
ぽんぽんとまるで子供をあやす様に背中を撫でられると、緊張していた身体が一気に解けていくんだから、やっぱりわたしはまだまだ子供だ。

「…あんたの泣き顔も可愛らしい故、これからも喧嘩は必要だと思った」
「ええ!?」
「言いたい事があれば言えばいい。俺は俺のままでなまえの考えを聞こうと思う。ちゃんと向き合いそして育てていけば良い」


そして斎藤さんはわたしの目尻に唇をひとつ落として、ぽつりと溜め息交じりにごちた。


「子供と大人の境界線など……目には見えん。それが少し嬉しくも有り、寂しくも感じるな」


と。

今わたしは、丁度その境目にいるのだと。そう言ってくれた。
斎藤さんも、やっぱり高校生だった頃のわたしと恋人になるのに相当悩んだらしく今もそれが抜けないんだと言う。だからこそ、こうして逢っても一歩踏み出すのが出来なくてモヤモヤしていたらしい。
「これからはお泊りとか、旅行とか行きたい!」と言ったわたしに、やっぱり難しい顔をした斎藤さんだったけど「そうだな。分かった」と気合十分で頷いてくれた。
どうやらお仕事もゴールデンウィークを過ぎ、そろそろ一段落が着くと言っていたので、来週からはまた一緒に過ごせるらしい。


「ねえ、時間大丈夫…?」
「…着く頃には宵もたけなわだろうな、」
「あ、じゃあ斎藤さん」
「なんだ?」


大好きな人とわたしの間に境界線があり、今自分が其処に立っているのなら、

「子供流の解決の仕方教えてあげましょうか?」
「…余り参考にはなら無さそうだが、一応聞いておく」
「あのね、」

両方のルールを混ぜて、自分らしく歩いて行こうか。
言いたい事を言い合って、見付かるものだったあるんだと折角あっち側の斎藤さんが教えてくれたんだから。

「寝坊して遅刻確定したら、焦らずのんびり歩いて行くでしょう?それですよ!」
「………あんた、」






境界線の隘路

(あれ、やっぱり駄目?)
(…いつもその様な事をしていたのか)
(ご、ごめんなさい!)
(…いや、いい。もう過ぎた事だ。それより)
(はい、)
(いっその事、諦めて休むのはどうだ)
(え、)



あとがき→


prev next

bkm

戻る

戻る