俺はもともと子供が苦手な方だった。

近付けば泣かれる、関わらぬ様遠巻きに居ても泣かれる、あやそうと思うも…どうしていいのか分からず頭が真っ白になってしまう。特に赤子など、言葉が通じない分意思疎通は最早不可能に近い故、親戚の子供とてこの手に抱いた事等一度としてなかった。

しかし。
今背中に感じているこの温もりは…何より大切な、



「は、はじめくん…っ!?」
「ああ、おはようなまえ、」
「おはよう…って、何してるの?」
「…何とは、」

朝。太陽は既に昇り切っており薄く引かれたレースのカーテンから心地良い光りが部屋に射している。
後ろから飛んできた声に、目の前で上手く巻かれた出し巻き卵の焼き加減を確かめ振り返ると、まだ寝巻きを着たままの妻の姿がそこにあった。
その顔は目を見開き寝起きの顔で口を開けているが…まぁ、無理も無いだろう。
今の時間は午前七時半を指す。いつもの俺ならば、遠のむかしに出勤している時間だ。

「愚図って居たのでな、あんたを起こさない様にキッチンに来ていたら丁度いい時間だった故、そのまま朝食を…」
「そ、そうじゃない!会社!仕事は!?」
「…そんな大きな声を出すと、起きてしまう。先ほどやっと眠ったのだ」
「あ…」

まず何から話そうか。と俺がIHのボタンを押した時。背中に感じていた温もりが母親の声…だろうか、なまえの言葉に反応する様にゆっくりと動いた。

「パパに見て貰ってたの…」
「…正直大変だった」


俺となまえの大切な宝。
ぎゅと握り締めた小さな手を視界の隅に写しながらも自然と顔が緩んでしまう。
まず、こうして俺が仕事に行かず家で朝食を作っている事を説明する前に、取り合えずやる事をやってしまおう、と呆気に取られたままのなまえに顔を洗って来るように促す。
壁掛け時計を何度も見上げ不安な顔をする彼女は、取り合えず困惑していたが、それ以上何も聞かず洗面所へと消えていった。

「あれだけの声で話していても、まったく起きる気配が無いのだな…あんたは、」

可笑しくなってクと背中に向けて笑うと、まるで抗議するかの様にぶら下がる足が俺の脇腹を一度蹴飛ばした。

朝起きてまずするのは、ベッドの脇に置かれたベビーベッドを覗く事だった。
俺が選んだ「メリー」と言うごちゃごちゃと少々煩い傘型の玩具を避け覗くと、真っ白な肌に小さい目や鼻、そして口が可愛らしく乗っている。
人は赤ん坊の事を天使だと言うが、こうして己の子供を見下ろすとその意味がやっと理解できた。
以前従姉妹が産まれたての子供を連れて来た時は正直「これは本当に人間なのか」と目を剥いた。失礼な事を言うなと怒られたが、その頃から既に子供に懐かれる事がなかった俺に取って未知の生物以外の何物でもなかった。

なまえの腹の中で毎日成長する様を見ていても、どこか不安があった。俺にちゃんと父親が出来るのだろうか。怖いと泣かれた場合はどうする。そもそも苦手分野を克服できるのか、支えて行けるのか。そればかり考えていたのだ。

『産まれましたよー元気な男の子ですね!』

しかし、いざ出てきた時には胸が熱くなった。涙さえ零れてきてしまうかと思うくらいに。


「はじめくん、おんぶ紐…似合う…」
「…それは、どう反応すればいい」
「いいよ、後で写真撮らせてね!あとご飯食べるならあっちで寝かせてくる」

出来上がった朝食をダイニングテーブルへ並べていると、ぱたぱたとスリッパを鳴らしリビングに飛び込んでくるや否やそんな事を真顔で言い放ったなまえに呆れつつ、彼女に息子を一旦預け背中の重みから開放される。なまえが普段より感じているだろうこの重みを初めて知った。

そして彼女が息子をリビングのバウンサーへ降ろした所で以前より声に気を使っての静かな二人での朝食。

「それで?なんで仕事行って無いの?有給?」
「違う」
「え!?嘘、まさか…リスト、」
「違うっ!」

思わず箸で抓んだ煮豆を皿に落としながらも俺はゆっくり話し出す。

「以前、あんたはテレビの特集を見て言っていたではないか、」
「ふんふん、ふん?」

あれは息子が産まれてから間も無くの事だった。いつも通り退社後寄り道もせず真っ直ぐ帰宅し食事を取っていると、テレビを見ていたなまえがぽつりと…誰に言うでもなく言葉を溢した。

その特集とは、今増えてきているという育児をする男性のドキュメントで。
「育児をするメンズ」を省略し「育メン」等と呼ぶらしいが、どうやら今は男も育児をするのが当たり前の時代らしい。そう言えば勤めている会社も育児休業基本給付金といった制度を取りれる方針だと聞いていた。それを思い出しつつ箸を止めテレビを見ていると、ポツリと飛んできた声。


『はじめ君は、無理だろうなぁ…』
『……な、何故』
『だって、仕事一番じゃん?あ、別にそれが悪いとは言って無いからね!人間誰にでも得て不得手はあるっしょ!あはははは!』
『…………、』

何故か盛大に笑いながらそう言われてしまったのだ。

『俺とてやろうと思えばっ、』
『うん知ってる。出来るよね!でもいいよ、お仕事頑張って』
『……………、』

そこからの俺の行動は早かった。
翌日には会社に育児休暇の申請書類を貰い、昼の休みにそれを書き終え、帰り際に即上司に提出。勿論驚いた顔の上司に「斎藤まさかお前が、育メンを…」等言われたが俺は真面目に「はい。宜しくお願い致します」と頭を下げた。
そして、受諾されるまで何日か要したがやっと取れたのが本日からの長期休暇だった。


「………マジで、」
「……ああ、マジだ」
「あ、はじめ君がマジとか言ったー!」
「つ、つられたのだ!」

ころころと表情を変え笑いながら箸を置いたなまえはジっと俺の顔を凝視した後、ただ一言「そっか」とだけ頷いた。
もう少し何か言われるかと想定していた故、そのあっ気ない返事に俺の方が驚かされてしまった程だ。
本当にその一言のみで「この休暇はいつまであるのか」「休んでいた分の給与はどうなる」等そう言った質問すら無い。目の前でぱくぱくと俺が作った朝食を食べているなまえはただいつも通りに箸を進めていく。

「何も、聞かぬのか…?」
「ん?いや、だから育児休暇取ってくれたんでしょ?」
「あ、ああ…。だが勿論給与もいつもより少ない上に、俺が毎日休日関係なく家に居るのだぞ…っ」
「え?うん。嬉しいよ、これでも躍りだしたい位に」
「っ、」

空になった茶碗を静かに置くと、なまえは頬杖を付きにっこりと笑った。
逆に不意を付かれてしまった俺は、空になったそれを置くこともせず戸惑っている。俺は結婚してからも特別な日すら有給を取った事が無かった。それを申し訳ないと思いつつもそれが夫として、そして父親として当然の事だと思っていたのだ。
金が無ければ人間は生きてはいけぬ。だが、この間のテレビで見た特集は、それも大切だが人として、時には金よりも仕事よりも大切なものがあると言う。


「はじめ君…頑張ってくれたんだねぇ…」


しみじみとそう言ったなまえの言葉が胸にスッと入ってくる。
婚前も予定を組んでいようと仕事が入ればキャンセルしていたし、それに関してなまえには寂しい思いを沢山させて来たと自負している。
だが結婚しても暫くは変わらずだった俺が、息子の誕生であっさり手の平を返すなど…きっとなまえは良くは思わないだろうと思っていた。それ故、今日まで言えなかったのだ。

だが、


「はじめ君、結婚してからずっと悩んでたでしょう?」
「…、」
「知ってるよーそのくらい。わたしだって悩むんだからはじめ君はもっとだよね…」
「…だ、だが!言っておくが後悔など微塵もしてはいない!」
「うん。それも、知ってる」

目を閉じたなまえの顔は、いつの間にか母親の顔になっていて思わず言葉が詰まる。
彼女は全て見通しだったと言う事か。俺が父親になった時から抱えていた戸惑いや不安。全て受け止め今日まで笑っていたのかと。

「だから、わたし嬉しいよ?はじめ君と一緒にあの子と居れるの」
「…何でもする、オムツだって替える。風呂にも入れよう。愚図ったら…その、俺があやす…」
「いないいないばぁ出来るの?」
「……やる、」

俯き小声で話す俺に「わあい!じゃあデジカメ新調しなきゃ!」なんて突拍子も無い言葉を投げるなまえが愛しい。
全て分かって受け入れて貰えるこの温かさが愛しいのだ。

その時、リビングの方からか細い泣き声が聞こえてくる。

「あら、起きちゃった!」
「なまえ、俺が、」
「え…でも、」

急いで椅子を引くとそのままなまえを追い越しすぐさま息子の所へと飛んでいく。
実際何だかんだと理屈を並べたが、俺は、

「家族は、支え合うものなのだな、」
「…はじめ君、」

ふにゃりと瞼を震わして泣いている息子を抱き上げると、ガラスに触れるかの様に繊細な手つきで胸に抱いた。

ああ、家族とは……こんなにも温かい。


「揺らせば大人しくなるのだろう?」
「うーん、」
「?」

ぎこちないながらも、今朝やった要領であやしていると何だか苦笑いのなまえ。
それに加えて大きくなって来た泣き声に慌てていると、するりと息子を俺から掬い上げるなまえ。俺は取り合えず従いつつも、俺とは違い慣れたその手付きに、時間の差と言うものを感じてしまった。

これは、今日から猛特訓だな。
あれこれ教わり、対処出来ぬ事を無くさなければ一人前の「育メン」とやらにはなれぬ。
独り静かに闘志を燃やしていると、「はじめ君」とまるで息子に語りかける様な優しい声で俺の名を呼んだ。

「はじめ君は、はじめ君のペースでいいからね」
「…ああ、だが俺も負けてはいられない」
「え!?勝ち負け!?勝ち負けなのっ!?はじめ君!とんだパパだよ!」
「ち、違う!誤解だ!」

その感もふにゃふにゃ言っている息子を抱え、何かクッションやガーゼ等準備をしているなまえ。ここでも結局右も左も分からず俺は正座で待機。


「実ははじめ君、大切な息子がわたしに独り占めされちゃうんじゃ無いかって不安なんでしょう?」


くすくす笑いながらそう言われ、俺は思わず「は、」と首を傾げてしまった。

何を、言っている。

俺は、


「違う。それもあるが、何より…あんたを、」


いつか息子が大きくなった時に、


「あんたの事も、その…取られたくは、無い…っ、」
「…え?」


妻の自慢をする自分を笑われない為に、今ここに居るのだ。

勿論、支え合いもあるが。
息子に「愛する者を精一杯愛せ」と伝える為に。


「それ故、俺は息子にも妬くだろうな。しかし、その行為を笑われない為にも俺は出来る事は何でもやろうと思う」
「はじめ君…」

大きく見開かれた瞳に滲む涙を唇で掬って、それを見上げる息子の頭を撫でここで俺は覚悟をするのだ。

この二つを最後まで守り抜こうと。


「複雑なのだ。息子だろうと、あんたはやらん」


結局、俺はなまえに認めて貰いたいだけだったのかも知れない。まるで腹を好かせミルクをせがむ子供の様に、言葉にできない分身体や行動で内を訴える。

苦笑いの俺を見て、真っ赤な目を細め息子を抱き締めなまえは笑った。


「頑張れっ、」





「新米育メンパパ!」


(では、まず手始めに…今は何故愚図っているのか教えて欲しい)
(あ、これは…、やっぱりこれはわたしにしか出来ないなぁ)
(何だ、)

(はじめ君、おっぱい出ないでしょう?)
(……っ!!??)



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